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忠勝に関東への出陣が命じられたのは、8月7日だった。甲斐信濃の領有に向けて、北条氏直が本格的な軍事行動を起こしたのだ。北条氏忠を総大将に据え、2万の軍で相模を出発したとの事。寡兵の徳川軍は信濃から甲斐に本陣を移し、交戦しているらしい。忠勝の役割は輜重部隊の警護である。武田滅亡後、甲信地方は空白地のようになっている。かの地では兵站拠点のようなものは確立されておらず、補給が困難なのだ。駿河や遠江から兵站線を繋げるしかない。その兵站線を切る策に北条軍が乗り出してきたのだ。遠征してきた徳川側はどうしても兵站線が伸び過ぎてしまう。その弱点を北条側は衝いてきた。二度、輜重隊が潰されている。三度目の兵糧入れに忠勝の黒疾風が随行する事になった。
「何のご心配もなく」
屋敷の上がり框で唹久が大きく膨らんだ腹を抱えて言った。
「二回目ですので、産道も拡がっております。きっと、鍋丸の時より円滑に出てまいりますわ」
唹久は今、身重だった。もう、いつ赤子が産まれてもおかしくないのだ。初めに唹久から産まれた忠勝の嫡男鍋丸は8歳になっている。まだ小さいが骨格がしっかりしてきた。
「私や小松もついているから大丈夫だ」
糸のような眼を見開き、乙女が言った。
「鍋は存分に励んでこい。家はいつでも私たちが守っているから」
「敵の首をたくさん取ってくるのですぞ、父上。手柄無しで帰ってきたら、家に入れませぬぞ」
小松が言った。上がり框に並ぶ、唹久、乙女、鍋丸、その誰よりも小松は背が高かった。16歳になっている。もう嫁に行ってもおかしくない齢だが、小松には、どんな縁談もまとまらない。忠勝の悩みの種だ。
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