《132》

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 自分はやっと、もののふとしての出発点に立てたのだ。顔を上げ、井伊直政と大書された掛け軸を見た。この名が自分を更に大きな者へと導いてくれる。直政は家康と眼を合わせた。 「これから、より一層の精進を致し、お家の為、粉骨砕身の働きをしていく所存にございます」 直政の言葉に家康は満足そうに頷いている。直政は頭を下げた。込み上げてくるものがあった。皆の眼がある。簡単に泣いたりするものか。直政は顔に力を込めた。 「続いて、家督継承の儀を行う」 家康が言った。直政は顔を上げた。これは何も聞いていなかった話だ。家督継承の儀という事は、現当主が来なければ成立しない。井伊家の現当主は直虎である。直虎は今、病床に伏せっている。起き上がる事もできぬほど、病は篤いのだ。間にどよめきが起きた。直政は振り返った。板戸のところに、礼服に身を包んだ直虎が立っていた。 「直虎殿」 直政は驚き、呟いた。直虎は凛とした表情で軽く頷いてから、前に出てきた。その足取りは病人とは思えぬほどしっかりとしていて、顔の血色も良い。最後に会った時、直虎は明日をも知れぬような状態だった。それが今は、まるでそんな気配を感じさせない佇まいをしている。病はどこかに去ってしまったのか。直政の心中では喜びよりも心配の方が大きかった。 「なんという顔をしているのですか」 直政の前に座した直虎が微笑んで言った。女性らしい優しさが滲み出た、柔らかい笑みだった。 「直虎殿」病は、という言葉を直政は呑み込んだ。本能的に、それは口に出してはならない事であるような気がした。直虎が脇差しを直政に突き出してきた。 「これは、代々井伊家当主が受け継いできた脇差しです」 直虎が言った。 「ここに宣言致します。本日より井伊家の当主は井伊直政である、と。さあ、受け取ってください、直政殿」
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