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次から次へと阻まれて
その日は、片野坂くんへの会社の案内から始まって、課の配置を説明したり、業務に取りかかってもらったり、あっという間に一日が過ぎた。
私のいつもの作業は、係長がほかに割り振っている。
慣れない仕事はペースがつかみづらく、教えるという気の張りもあり、どっと疲れた。ただ、片野坂くんは優秀だから、三日目には独り立ちするだろう。
竹若くんと接する機会は作れなかった。とてもじゃないけれど、同時進行させる気持ちのゆとりがない。
仕事を終えて帰宅したとき、彼からメッセージが届いた。
『お疲れさま。大変だろうから無理しないで。困ったことがあれば、頼ってほしい』
それを目にするだけでホッと和んだ。
うん、ちゃんと支えてもらえている。お礼のメッセージを返した。
二、三日のペースの乱れなんてどうってことない。
二日目は、片野坂くんの質問に答えることが主になった。彼の熱心な様子を見るに、こちらのやり方を学ぶことで気付きもあるらしい。
片野坂くんはまた、係長に取り組みかたの違いを話す。本社との情報交換という役割を、しっかり果たしている。
褒めると、「芝辻さんのおかげです」とにっこり笑った。
女性陣から羨ましそうな視線が飛んでくるが、これもきっと明日まで。以降は、どうぞ彼の力になってあげてください。
竹若くんとはメッセージのやり取りをし、帰宅後はのんびりした。
三日目ともなると、片野坂くんの働きぶりを見ているだけで問題なかった。明日からは自分の仕事に注力できる。
もうすぐ終業というとき、私は一人で事務所に向かった。
階段を下りていると、用事で出かけた片野坂くんと鉢合わせする。とくに連絡事項はないので、軽い会釈をしてすれ違う。
あと三段というタイミングで、不意に後方から呼ばれた。
「あ、芝辻さん。伝票の件で聞きたいことが――」
私は振り返ろうとしたものの、足運びが狂って段差を踏み外した。
壁に手が届かず落ちてしまう。転がる事態にはならなかったが、階段下で膝が当たり、座り込んだ。
片野坂くんが「大丈夫ですか!?」と下りてきて、目の前でしゃがむ。私は痛いより恥ずかしく、ごまかし笑いした。
「うっかりしてた。平気だよ」
「怪我してません?」
「問題ないと思う」
上半身に異変はない。ゆっくり立ち上がる。
そのとき膝に痛みが走り、わずかによろめいた。
屈んだままの片野坂くんが、こちらの腕を持って支えてくれた。それから足に目をやり、驚きの声を上げる。
「膝を擦りむいてますよ!」
「え? あ、ほんとだ」
右膝からすこし血がにじんでいた。痛みはそれほどでもないが、見た目が痛々しい。
幸い、この階に医務室がある。
「手当てしてもらうね。戻りが遅くなる、って伝えておいて」
「僕が連れていきますよ」
「いやいや、付き添いなんて必要ないから」
「それで悪化したら、立つ瀬がありません」
片野坂くんは責任を感じている。
たしかに彼が声をかけたタイミングではあったけれど、自分で落ちたのだ。私のほうが居心地わるい。
「心配してくれてありがとう。ほんとに大丈夫」
「いえ、医務室まで送り届けます」
「すぐそこだよ?」
「じゃあ、失礼して」
片野坂くんが不意に距離を縮め、サッと私を抱き上げた。
言葉を失う私に対し、真面目な表情で言う。
「強引ですみません。でも歩かないほうがいいです」
「いや……あの……」
「行きましょう」
「えぇえっ!?」
いわゆるお姫さま抱っこの状態で運ばれる。あまりにも予想外の出来事に、私は思考停止した。
ここは会社内だ。すれ違う社員が「何事?」とギョッとする。
私はきまり悪くて、ありがたみなど吹き飛んだ。
「自分で歩ける! ていうか、注目あびるから勘弁して!!」
「あとすこし我慢してください」
「怪我より人の視線が痛い!」
抗議のかいなく、医務室に着いてしまった。
私を下ろした片野坂くんが、勢いよくドアを開ける。
「すみません! 階段で転びました、診てください!」
産業医の女性が驚いて振り向いた。
「元気ね」
「僕ではなくて彼女です」
片野坂くんがこちらの背中を押す。私はまた、なんらかの行動に出られてはたまらない、とあわてて部屋に入った。
丸椅子に腰かけて診察が始まると、彼が声をかけてきた。
「先に戻ります。課の人には話しておきますね」
「お願い」
相手が立ち去ってホッとする。
怪我は軽い打撲と擦り傷だ。患部を水で洗い流し、白い傷当てを貼ってもらった。濡れても差し支えないが、粘着力が弱まったときのために予備を渡される。
課に戻ると、係長が心配そうに歩み寄ってきた。
「怪我の状態は?」
「軽傷です。普通に歩けますし」
「病院には?」
「ひとまず様子見でいいそうです。すみません、驚かせてしまって」
「無理しないで」
「はい」
朝や昼だったら、早退を勧められたかもしれない。もうすぐ終業時間だ。やりかけの仕事を片付けることにした。
そういえば、伝票の件を聞かれたんだっけ。
片野坂くんのほうへ向かうと、彼の表情は曇ったままだ。
「本当にすみませんでした」
「私が不注意なだけ。すぐ治るから気にしないで」
「それまでフォローさせてください。荷物を運ぶときは僕がやります」
「え、そんな……」
そのとき、係長が口添えした。
「芝辻さん、やってもらったらいい。早く治そう」
私も、誰かが怪我をしたら心配するし、力を貸すだろう。やむなく「分かりました」と答える。
そして片野坂くんに頼んだ。
「膝に負担がかかることはお願い」
「なんでも引き受けます」
私はあいまいに笑い、伝票の話をして席に戻った。
竹若くんが気遣いの目を向ける。
「ここ二、三日で疲れたんだね。もっと手助けすればよかった」
「充分、気にかけてくれてたよ。見た目は痛々しいけど、大したことないの。でも無理しない」
「理由づけしやすいし、休むのもありだよ」
「うん。気が楽になった」
すると彼がやわらかく微笑した。
竹若くんは、こちらの慣れない仕事と怪我に加え、べつの心配もしている。
私はいま生理中なのだ。なにも、このあわただしいタイミングでなくても、と恨みに思う。
これだけのことが重なると、さすがに気が滅入る。
仮に休ませてもらった場合、怪我を理由にできるため、有休は消化されない。ただ、そうするほどの体調不良ではない。
もし発熱などの症状が出たら、アドバイスに従うことにしよう。
結局、翌日も休む必要を感じず、出勤した。
怪我の痛みはごく小さく、通勤電車がつらいこともない。歩く仕事は、片野坂くんがことごとく持って行ってしまう。
座りっぱなしになり、これはこれで困るのだが。
片野坂くんが熱心に尽くすものだから、同僚が彼をからかった。
「マメだな~。カノジョを溺愛してるカレシみたい」
私はギョッとしたが、片野坂くんは屈託なく笑う。
「これぐらいしないと、力になったと言えませんからね。押しつけがましくても、治るまではこのスタンスでいきます」
「押しつけがましい自覚あったのかよ」
「できれば、治す魔法が使えればよかったんですけど」
彼は医務室から課にもどったとき、「自分がぜんぶ悪い」と説明したらしい。私は訂正したものの、みんなに届いたかどうかは怪しい。
加えて、あんな派手な運ばれ方をしたものだから、誰もがそのことを知っている。
会社で抱きかかえられたなんて、なかったことにしたい。相手が片野坂くんなので、女性なら喜ぶべきかもしれない。だが私にとっては黒歴史だ。
ただし、『これが竹若くんだったら』と想像すると、くすぐったくてたまらなくなる。
女性陣の反感を買うのでは、と懸念したが、怪我という事態のために敵視されることはなかった。
そんなこんなで、竹若くんとは会えずじまいだ。
かろうじてメッセージを交わす。送られてくる文章はやさしく、胸があたたかくなるけれど、同じくらい淋しい。
その週の土曜は、竹若くんが休日出勤だった。
日曜、私にすこし疲れが出た。寝たり起きたりしてダラダラ過ごす。
彼に対しては、用事ができた、と伝えた。あとになって、「来てほしい」とわがままを言えばよかったんだ、と悔やむ。
怪我の治りは順調である。
白い傷当ては目につくと思い、ドラッグストアで透明の物を買った。こちらに張り替えれば、回復をアピールできるだろう。
それで状況は元通りになる。
週明けには体調がよくなった。
じき、傷当ても必要なくなる。ようやくトンネルを抜けた心地だ。
出勤したとき、係長が状態を尋ねてくる。私はこれ幸い、と「もうすぐ治ります」と周囲に聞こえるよう答えた。
同僚から「よかったね」と声をかけられ、片野坂くんは「安心しました」と笑みを浮かべる。
席に着いて、竹若くんに朝の挨拶をする。
だが相手は、こちらを見ずに「おはようございます」と小さな会釈だけ返した。明らかによそよそしい。
どうして……?
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