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なにもかもこぼれ落ちて
いつも優しく接してくれた竹若くんの、手のひらを返したような態度に、私は困惑した。
体調もよくなって、やっと気持ちを伝えられると思ったのに。
どこか身体の具合が悪いのかな、と考えたけれど、ほかの人に対しては変わらない。私に用事があるときだけ、こちらを見ないようにするし、声が冷ややかだ。
なにか腹を立てているのだろうか? 思い当たるふしがない。
この面倒くさい関係に嫌気がさした?
たしかに私は、彼をさんざん振り回した。けれど共に過ごす時間が増えるようになって、相手にとっても悪い関係ではない、と解釈していた。
それは勘違いだった?
当たり障りのないメッセージを送るが、返事はない。
竹若くんがここまでハッキリした態度を取ることは、まずない。仕事で仲良さそうな同僚について、「じつはそりが合わない」と言うのを聞いてビックリしたことがある。
大人だから、仕事だから、表には出さないのだろう。
いま私に対して、愛想を向けることすらやめてしまった。それはよっぽどのことだ。
私はすっかり委縮した。この状況で想いを打ち明けようものなら、どんな反応をされるか。もっと嫌われる真似なんてできない。
ギクシャクした同僚でいるしかなかった。
片野坂くんが本社へ戻る日が近づいたため、彼をねぎらう飲み会が開かれることになった。私は幹事から、参加するかどうか尋ねられた。
すでに「行く」と返事したメンバーの中に、竹若くんがいる。
私は「都合が悪いので」と断った。
できれば片野坂くんを送ってあげたい。でも、それ以上に竹若くんが怖い。もし飲み会で近くの席になり、嫌そうな顔をされたら立ち直れない。
片野坂くんへは、最終日に「お疲れさま」を言おう。
いまは仕事を無難にこなすことしか考えられなかった。
だが、その日の昼過ぎ、ケータイにメッセージが入った。相手は竹若くんだ。
『話があるので、仕事のあといつもの場所で待ってます』
ただの文字の羅列が、ひどく冷たく感じられた。
繁華街そばの三叉路の手前に、彼の車が停まっていた。
窓をノックしてから助手席のドアを開くと、竹若くんが素っ気なく「乗って」と促した。私は隣にこわごわ腰を下ろす。
車が走り出した。
息詰まる沈黙が満ち、景色だけが流れていく。
やがて私の家のそばに着いた。まさか、送るために呼び出したわけではないだろう。重い空気に耐えかね、私は尋ねた。
「私、なにか怒らせることした?」
道路を眺める竹若くんが、苦しそうに目を細めた。
「これまでの関係を全部なかったことにしたい」
「え……」
「って、俺に言いたいんだよね?」
私が、あなたに? 状況が呑み込めなくて混乱する。
「……どうして?」
竹若くんは、ハンドルに乗せたこぶしを握りしめた。
「片野坂がいるから」
「彼となんのつながりがあるの?」
「無自覚なんだ? 俺の口から言わせるなんて」
彼は自分の前髪をグシャグシャッと乱し、怒りの目を向けた。
「芝辻さんはあいつのことが好きなんだよ!」
「……う、嘘……」
「ステータスが物語ってる。片野坂への想いが高まるのと同時に、俺と接するときの落ち込みはひどくなる一方だ。さすがにショックだよ、こんなに嫌われるなんて」
「ま、待って。私は竹若くんを嫌いになってない」
「きっと、まだすこし情があるんだ。同情だと思うけど」
私にステータスを確かめることはできない。だからといって、相手がこんな嘘をつくとは考えられない。
なぜ数値は、気持ちに反した動きをするのか。
機械みたいに壊れる可能性があるのだろうか。
「私は、片野坂くんに特別な気持ちはないよ。ステータスがどうして狂っているのかは分からない。でも、自分の心を見失ったりしない。私の本当の想いは――」
「いや、芝辻さんは片野坂に抱かれたいと思ってる!」
「そんな……。違う、違うよ」
「あいつはエリートで美形で優しいからね。女性なら誰だって惹かれる。ベッドの中でもスマートにリードしてくれそうだ。それとも、会社では同僚のフリをしてるけど、もう寝た?」
そんな言葉をぶつけられるとは思わず、私は絶句した。
私が好きなのは片野坂くんじゃない。ましてや、男女の関係になりたいなんて考えない。
たしかに魅力的な人だ。でも、私の心はべつのほうを向いている。
この胸をあったかくしてくれるのは、ただ一人。なのにどうして、竹若くんに通じないの?
私は心変わりした?
それなら哀しくなるはずがない。どうすれば、ステータスがおかしいと証明できるのだろう。
いつもそばにいた竹若くんが、ひどく遠い。
私は懸命に感情をこらえ、首を左右に振った。
「ステータスより、私の言葉を聞いて」
けれど、返ってきたのは無慈悲なものだった。
「口ではなんとでも言える」
竹若くんの姿がぼやけて、自分の頬が濡れるのが分かった。これまで積み上げてきたものが崩れ去る。
いや、ずっと砂上の楼閣だったのかもしれない。
関係が始まったのは、偶然の産物。つながりを深めたのは結果論。
身体を重ねた影響で、心が相手に引っ張られただけ? だからステータスが伴っていない?
たしかなのは、なにを言っても届かない、ということ。
私は誰を見つめているのだろう。竹若くんの指摘どおり、片野坂くん? もう正解が分からない。
終わりは、こんなにもあっけない。
離れがたい関わりを築くことができなかった。共に一喜一憂していると思ったけれど、どれもこれも『ごっこ』でしかなかった。
私は泣きながら、ふっと笑う。
「私たち、べつに恋人じゃないもんね」
竹若くんが身じろぎしたが、表情はよく見えなかった。
私は濡れた頬を手で大雑把に拭い、シートベルトを外してドアを開けた。そして最後に告げる。
「全部なかったことにして」
車のそばから走り去った。
気付くと、玄関の壁にもたれて呆然としていた。両手で顔を覆ってズルズル座り込む。
恋人でもなんでもなかったあなたのせいで。
心は息の根を止められました。
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