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この咲きほころぶ花に
金曜に課長が朝礼を行い、片野坂くんの応援が今日までであると、改めて告げた。当人も挨拶をする。
「いろいろ勉強させていただきました。機会があればまた顔を出しますので、そのときはよろしくお願いします」
課の面々から、あたたかな拍手が送られた。
片野坂くんに仕事のことで声をかけたとき、私は言葉を添えた。
「二週間お疲れさま。いろいろ助けてくれてありがとう。飲み会には参加できないけど、本社に戻ってもがんばってね」
「芝辻さんにはお世話になりました。感謝しています。怪我についてはすみませんでした。早く完治するよう祈ってます」
そして、唐突に提案してきた。
「ランチを奢らせてもらえませんか? お礼がしたいんです」
「気にしないで。私は仕事をしただけ」
すると相手は苦笑した。
「芝辻さんって僕には塩対応ですよね。じつは嫌われてたのかな」
「女性陣の目が怖いから、あまり関わりたくなかった、が本音」
「はは。思惑が外れて残念でしたね」
彼が、見透かすような眼差しを向ける。
「愚痴を聞くぐらいはできると思ったんですけど」
「えっと……見てておかしい?」
「無理してるのは分かります」
私は内心でため息をついた。
かろうじて目は腫れなかったものの、起床時は寝不足の顔だった。いつものコンタクトを眼鏡にし、化粧はあえて厚く。
だが、表情が冴えないのは取り繕いようがない。
そういう不自然さに気付くのは、相手をちゃんと見ているということ。でも、触れてほしくないときもある。
片野坂くんが気遣いの口調で言った。
「なんだか心配だなぁ。本社に掛け合って、ここでの仕事を延長しましょうか?」
私は思わず正直に反応した。
「いいえ、とんでもない! さっさとお帰りいただきたい!」
「芝辻さんの力になりますよ?」
「本社でのご活躍を心よりお祈りしております!」
相手がこらえきれないようにククッと笑った。
「ここまで拒否られると、いっそ清々しいですね」
私は恨みの目を向けた。
「片野坂くんと関わったおかげで、散々なんだから」
「えっ、嫌がらせでも受けました?」
「そんなことはないけど……」
不意に気付く。
私は、竹若くんと破綻したのは片野坂くんのせいだ、と思った。
でも彼は仕事をまっとうしただけ。怪我の影響で多く関わることになったけれど、それ以上でも以下でもない。
片野坂くんの存在がなくても、竹若くんとの関係を続けるのは限界だったのかもしれない。
ステータスが狂って、私たちは物別れした。
そのことで実感する。自分は状況に甘えていた。言葉にしなくても分かってもらえる、と、それ頼みの関係だった。
もしかすると、ステータスが見えなくなる日が、急に来たかもしれない。私は困惑するだろう。その状態でのコミュニケーションの取り方が、分からなかった可能性もある。
見えないことが当たり前なのに。
特殊な状況にあぐらをかいた。大事なことは、きちんと言葉にしないといけない。たとえ信じてもらえなくても。
ああ、そうだ。私は、なにひとつ形にしていない。どんな結末が待っていようと、行動しなければならなかった。
告白して拒まれたらつらい。
だから最後の最後で、安全圏へ引き返してしまった。
チラッと竹若くんの席を見る。相手はどこかへ出ている。
私は『どうして、どうして』と一晩中、彼をなじった。だが車の中で自分だって、ひどいことをしたのではないだろうか。
踏みとどまって話をつづければ、違う結果になったかもしれない。
自分は心を尽くしてがんばっただろうか? もうすこし、できることがあったのでは?
胸が張り裂けそうに痛い。私の中の私が叫んでいる。
気持ちを伝えたい。あふれ出す感情を抑え込むことはできない。
片野坂くんが申し訳なさそうに言った。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「ううん、八つ当たり。片野坂くんは悪くない」
「事情は分かりませんが、かき回してしまったみたいですね」
私はふっと笑った。
「大丈夫。あなたの存在ぐらいで、私は左右されない」
「ここはホッとするべきなんでしょうか?」
そして片野坂くんは苦笑した。
「やっぱり僕のこと、ちょっと嫌いでしょう」
「かもね」
私は肩を竦めた。
好きな人がいなかったら、目の前の彼を意識したかもしれない。でも、頭をよぎるのはべつの男性だ。
ためしに、片野坂くんとデートをしたり、抱きしめられたりする光景を思い浮かべた。カレシとしては絵になるけれど、しっくりこない。
次に、竹若くんで想像する。
すると、私の中にある花はたちまち咲きほころび、ドキドキして、くすぐったくて、家ならゴロゴロ転がりたいくらいだ。
その上、笑顔で名前を呼ばれようものなら――。
関係を清算したことも忘れ、幸せな気持ちになる。相手が竹若くんというだけで、私のスイッチはオンになってしまう。『例の数値』だけでなく、すべてにおいて。
片野坂くんが、興味津々という様子になった。
「芝辻さんって、じつのところ喜怒哀楽が豊かですよね」
「えっ、そんなに分かりやすい?」
「よく見れば、ですけど」
一瞬、ステータスは見えてないよね、と警戒したけれど、彼が数値に応じた行動を取ったことはない。
「いま変化した?」
「しかめ面のあと、顔を赤くして目がキラキラでした」
「ダダ洩れ!!」
相手の観察眼の前には、自分の『平静を保っているつもり』は通用しないらしい。ヤバイ、退散しよう。
踵を返しかけたが、私はふと彼に尋ねた。
「そんなに嬉しそうだった?」
「ええ。対象がなにか知りませんけど、芝辻さんを虜にしているんでしょうね。生きざまがかっこいい俳優とか、かな」
表情で分かるのなら、ステータスも変化しただろう。
私はハッとした。
いま、片野坂くんと話をしている。その中で竹若くんを想像してときめいた。ステータスが見えたら、『私が片野坂くんにドキドキした』ように受け取れる。
数値の変化は『片野坂くんといたときに起こった』が、『片野坂くんに対して起こったわけではない』のだ。
つまり、私の心となんの齟齬もない。
片野坂くんと接するとき、「本当なら想いを告げていたのに」とか「次はいつ二人になれるんだろう」とか、そんなことばかり考えた。
頭に浮かんでいたのは、いつも竹若くんだ。
その当人とやり取りするときは、もどかしくてモヤモヤした。貪欲になった私が、会話だけで充分に満たされるはずがない。
改めて自らに問いかける。私の気持ちを響かせるのは誰?
答えは明らかだ。
そんなこと、分かりきっていたのに。本当にステータスが壊れても、これだけは間違えない。
私を死にそうな気持にさせるのは、あなただけ。
不意に、片野坂くんがクスッと笑った。
「どうやら、愚痴を聞く必要はなさそうですね」
「うん、あなたの出番はないみたい」
「大人しく本社に帰ります」
「ありがとう。それから、お疲れさま」
「お世話になりました」
相手が差し出してきた手を握る。
こんなときでさえ私は、指は彼のほうが骨太だな、と感じた。
席に戻ると、竹若くんがパソコンに向き合っていた。
かなり険しい横顔だ。私とは接したくない、という空気が伝わってくる。
だが私は、開き直って声をかけた。
「竹若くん、話があります」
彼が、こちらに対して怪訝な表情をする。私は機先を制し、抑えた声で告げた。
「昼に屋上で待ってます」
そして、返事を待たずに仕事を再開した。
竹若くんはしばらくこちらを眺めていたけれど、無言でディスプレイに視線を戻した。
きっと、私のステータスはグチャグチャだ。
でも、もういいや。自分の心に従う。その声に耳を傾けてあげられるのは、私だけだから。
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