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ぎこちない空気に
翌日、出勤すると、竹若くんが隣の席についていた。
気まずいけれど、さすがに無視はできない。こわごわ声をかける。
「……おはようございます」
すると彼は振り向き、「おはようございます」とあわてて応じた。ステータスが目に入ったらしく、視線をさまよわせて赤面する。
昨日のやり取りがなければ、私はお幸せな勘違いをしたかもしれない。今はひたすら居心地が悪い。相手の様子から察するに、『例の数値』は高いままのようだ。
お互いそのことには触れず、仕事をこなした。
パソコンと向き合っても隣を意識してしまう。タイピングのミスが増えた。相手も緊張している気がする。せめて席が遠かったら、と思うが、理由なく変えてもらうわけにもいかない。
バイオリズムの波はいつ切り替わるのだろう?
彼の言葉を信じるなら、性欲が高まっているはずだけれど、そういう自覚はない。生理が来れば「そんな時期か」と思うが、それ以外の体調の波について考えたことはなかった。
彼氏がいたころ、セックスに夢中になる日もあれば、いまひとつ気が乗らない日もあった。シチュエーションによるのかな、と思ったけれど、調子が影響したのかもしれない。
もし性欲を計測できる機械があって、いま低い数値が出ても、とくに疑問には思わない。自分の身体だけれど、きちんと把握できる範囲なんてたかが知れている。
風邪だってそうだ。
症状が出れば気付くけれど、本当なら前段階が存在する。いわゆる未病という状態。誰もがそこで異常を感知すれば、『風邪未遂』で引き返すことができる。
体調の境界線はけっこうあいまいだ。
だから、竹若くんの指摘が事実かどうか、やっぱり分からない。ただ、『ステータスが見える』なんて信じがたい話を根拠に、私を騙すメリットはないと思う。
強制的に情報が飛び込んでくる彼は、気の毒である。
私自身は対策を取る必要性を感じない。でも竹若くんからすると、数値としてハッキリ提示されてしまうわけで。
だからといって、頼まれて一人エッチをするのはさすがに抵抗がある。そのため、相手の言葉をつい疑ってしまう。たちの悪い冗談ではないかと。
エッチな気分になって、自分の意思でするならともかく。誰かのためにそういう行為に臨むなんて、どう考えても無理だ。
隣席とのギクシャクした空気を、私はスルーすることにした。
終業時間まであとわずか、というとき。
係長が書類を手に、竹若くんの席へ歩み寄った。
「竹若、ここ計算がおかしいぞ。合計が変わってくるから今日中に修正を頼む」
「あっ……すみません。すぐ直します」
「単純ミスなんて珍しいな。ま、よそに送る前だったから問題ない。よろしく」
「はい」
竹若くんが書類の修正に取りかかる。
私もその仕事をすることがある。難しい作業ではないものの、すこし手間がかかるのだ。もう一度やらなければならないのは大変である。
こちらの視線に気付いて、彼が苦笑いした。
「速攻で直すから大丈夫だよ」
「うん。がんばって」
励ましてから自分のパソコンに向かったものの、隣の存在が気になる。私だって、いつものペースで仕事ができているとは言いがたい。
私のせい、と考えるのは自意識過剰かもしれない。でも思い当たるふしがある以上、無関係だと言い切ることはできない。
そしてふと気付く。
私の数値が高まるたび、竹若くんはハンデを背負っていたのだろうか。
女性に向かって「一人エッチをして」なんて、簡単には口にできない。やむなく頼むほど、悩まされたのだろうか。
今日だって、本来ならしないはずのミスを犯した。つまり、私が彼の評価を貶めているわけだ。
終業時間が来た。
私はなんとか仕事を終えた。竹若くんは残業確定だ。書類と向き合う横顔に、私は声をかけた。
「ほかの作業を手伝おうか?」
すると竹若くんは驚いた顔を向け、問題ないと微笑した。
「もうすこしだから。ありがとう」
「無理しないでね」
「ササッと片付けるよ」
いつまでもそばにいると、むしろ気が散るかもしれない。すぐに退勤したほうが彼のためだ。
私はパソコンを落として席を立った。
「……お先に失礼します」
「お疲れさまです」
竹若くんはこちらを見ないまま、小さくうなずいた。
私は課を出てロッカールームに向かいながら、罪悪感に苛まれた。
翌日も、私に対する竹若くんの態度はぎこちない。
それによって、抱えていた疑問が氷解する。彼の接し方に波があると感じたのは、このせいだったんだ。日付を記憶しているわけではないにせよ、こんな周期だった気がする。
私は午前中に、パソコンを使う仕事を片付けた。
午後の書類作業は、「過去例を参考にしてきます」と係長に断って、資料室で取り組んだ。席に戻らないと分からない箇所もあったけれど、ほかの文字や数字を埋めていく。
資料を取りに来た人が「なんでここで?」と不思議そうにしたので、係長のときと同じ理由を告げた。
おかげで作業に集中できた。
ただ、これはたまにしか使えない。課内の連絡事項があるとき、私がここにいると、誰かの手をわずらわせる。
即座に対応すべき用件だったら、すぐ戻らなければいけない。
仕事の効率が悪すぎる。これは有効な対策ではない。
書類を抱えて課に戻ると、竹若くんが物言いたげな顔を向けた。私が資料室に行った理由を察したらしい。
周囲に人がいる状況で言及するわけにはいかないから、当たり障りのない声掛けをしてきた。
「お疲れさま」
「うん」
隣の席に腰を下ろすと、やっぱり気まずい。
この日の仕事は、二人とも時間内で終わった。けれど当たり前の作業をこなすのに、どっと疲れた。
異動願いを出すことも頭によぎったけれど、上司が納得する理由なんて思いつかない。
私は内心で深々とため息をついた。
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