やっぱり逃げられずに

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やっぱり逃げられずに

 それから私のメンタルはどん底だった。  この状態はいつまで続くのだろう。やっぱり会社を辞めるのが手っ取り早いのでは?  落ち込んでいるのは誰から見ても明らかだったらしく、「疲れてる?」「トラブルでもあった?」と心配された。一応は平気なフリをしたものの、「まったくもって大丈夫じゃない!」と声を大にして言いたかった。  ほかの仕事仲間ですらそんな反応だから、いわんや竹若くんは、ずっと私を気にした。  書類を落としたら即座に拾うし、廊下に出るタイミングが同じだったら、ドアを開けて先に通してくれる。事務室に用事ができたときは、「俺も出向くから、やっておくよ」と請け負った。  ありがたいけれど、彼の優しさがつらい。  フォローしなければならないくらい、私の状態が悪いのだろう。こういうとき、表面を取り繕っても竹若くんには通用しない。  私は投げやりになっていた。  当然、一人エッチはしていない。迷惑をかけるとしても、竹若くんを気遣うゆとりなんてなかった。  毎月毎月、『数値』を抑えるために自分で慰める。それが必ず伝わるなんてあんまりだ。繰り返せば慣れるかもしれないけれど、いまの時点で心が折れている。  これが神さまのいたずらなら、思いきり苦情をぶつけたい。  でも現実は変わらない。励ましてくれた竹若くんには悪いけれど、こんな欲求はなくなってしまえばいいのに、と思った。  土日を挟んで休み明け。  月末ということもあって、課全体の仕事が立て込んだ。何人かが残業になり、私も竹若くんもパソコンに向かいつづける。  屋上でのやり取り以降、こちらからはほとんど接していない。  前はこういうとき、ちょっと雑談したなぁ。互いをねぎらったり、こっそりグチをこぼしたり。  向こうの態度は変わらないが、気兼ねしているらしく、必要以上に話しかけてこない。  これじゃ、ケンカしたみたい。  いや、そのほうがマシだ。ケンカなら仲直りできる。私は竹若くんとどう向き合えばいいのか分からない。  胸がチクチク痛むのをこらえながら、なんとか仕事が片付いてホッとする。隣はまだ区切りがつかないようだ。  私はパソコンの電源を落とし、席を立った。気まずいけれど、挨拶はしておこう。 「お先に失礼します」  すると竹若くんは視線を向けて、「あっ」と声を上げた。  私が思わずビクッとすると、彼は気を取り直して応じた。 「お疲れさまです」 「……お疲れさまです」  奇妙な反応をされると、ステータスが異常をきたしたのではと不安になる。だが相手がなにも言わなかったので、そのまま席を離れた。  静かな廊下を進みながら、自分は遠からずギブアップしそうな気がした。こんな環境は耐えられない。  全身でため息をついたとき、後ろから駆けてくる足音がした。 「芝辻さん」  いちばん聞きたくない声だったが、やむなく振り向く。  竹若くんが目の前で止まった。心配の表情で尋ねてくる。 「まさか転職する気?」 「えっ、どうしたの急に」 「芝辻さんがそういう情報誌を見てた、って聞いて」 「えぇと、それは……」  すると彼は顔に罪悪感を浮かべた。 「俺が辞めるよ。こんな男がそばにいたんじゃ、気持ち悪いよね。ストーキングされてるみたいなものだし」 「気持ち悪いなんて思ってないよ。でも、お互い仕事しづらいよね。仕方ないって納得したつもりだったけど、うまくいかない」  私はうつむいて白状した。 「『私はエッチな女です』って主張してるわけだから。竹若くんこそ、引いてるでしょ? たぶん、波が穏やかな人もいるんだろうな」  また哀しくなってきた。  関係をおかしくさせているのは私だ。きちんとした対策も見つからない。せめて、彼を困らせずにすめばいいのに。  竹若くんの頼りなげな声が聞こえた。 「芝辻さんは俺に、『そばからいなくなって』と言う権利があると思う。君を追いつめるばかりで、ただただ不甲斐ない」  私は、そんなことない、とかぶりを振った。 「一生懸命、思いやってくれてる。私こそ、たった一回で現実逃避して。竹若くんは一年半だもんね。それがどんなに大変なことか……私は分かってない」 「芝辻さんは、俺の言葉に耳を傾けてくれたよ。一回だって、どれだけ勇気が必要だったか。嫌気がさしてもおかしくない」  彼は悔しそうに視線を落とした。 「どうにか、芝辻さんの気持ちを楽にする方法がないかな」 「竹若くん……」 「『奢る』とか『使い走りする』とか言ったけど、そんなのごまかしだ」  竹若くんはいつも真摯だ。言葉にしてもらうと、傷がすこし癒える。  私は自然と笑みを浮かべた。 「自分を追いつめないで。私にはあなたのステータスが見えない。落ち込んでも、平気な顔されたら分からないの」  話しながら気付く。 「私が会社を辞めたら、きっと自分を責めるね。うん、分かった。にっちもさっちも行かなくて、それが最善の方法なら選ぶ。いまは保留にしておく。竹若くんが嫌でなければ、の話だけど」  驚いた顔で見つめる彼が、あわててうなずいた。 「……強いな、芝辻さんは。普通はそうやって受け止められないよ」 「竹若くんを見習おうとしてるの。『私はなんてかわいそうなんだろう』って顔ばかりしてたら、カッコ悪い」  竹若くんがやっと笑顔になった。  私もふふっと笑う。それから観念して尋ねた。 「例の数値って、いまどうなってる?」 「え? えっと――」  竹若くんは顔を赤くした。 「すごく高いわけじゃないけど……それなりに」  なんとなくそんな気がしたので、私は驚かなかった。  放っておいても、そのうち落ち着くだろう。でも影響を受けるのは彼だ。  私は内緒話をするようにつぶやいた。 「もう一回しなきゃ、ね」  相手がさらに真っ赤になった。  できることなら回避したい。でも竹若くんのためなら、きっと勇気を出せる。それに、居心地が悪いのはお互いさまだ。  納得したそのとき、彼が突然「あ!」と声を上げた。  私は反射的にギョッとする。 「なに? どこかおかしい?」 「ひとつ思いついたんだ。……けど、どうなんだろう? 芝辻さんに嫌な思いをさせるかな」 「……それで分かるほど、察しよくないから」  竹若くんは苦笑した。そして表情を改めて提案した。 「俺も自慰すればいいんじゃないかって」  予想外すぎる発言に、私は絶句した。  彼がいたって真面目な顔をしている。冗談ではないらしい。  私はためらったあと、尋ねた。 「その結論に至った経緯を、教えてくれるとありがたいです」
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