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その場に立ち会うなんて
竹若くんが落ち着いた声で説明した。
「ステータスが見えるから、芝辻さんばかり恥ずかしい思いをする。こっちの情報を開示できればマシだけど、自分でも数値化しようがないし。だったら『俺が自慰したこと』が芝辻さんに分かれば、恥ずかしさとしては同レベルなわけで……」
じわじわと自信なさげにしぼんでいく。
「これ……またセクハラだ」
「えぇと、筋道は分かった。あと下心から思いついたんじゃないってことも」
「いや、訴えられるに値する。不快なこと口走ってごめん……」
彼が気の毒なほど自己嫌悪に陥っている。それを見ると、助け船を出さずにはいられなかった。
「私の気持ちを和らげよう、と考えてくれたんでしょ? ちゃんと優しさが伝わってきたよ」
「芝辻さん……」
彼は考え込んだあと、こわごわ言った。
「できれば俺にもさせてほしい。あ、するところを見て、って言うんじゃないから! でも『行為を知られる』のがどういう感覚か、俺は分かっておくべきだと思う」
私はあわてて手を左右に振った。
「そこまで身を挺する必要はないよ。私は平気だから、ね?」
「ごめん。本当に平気かどうかは分かるんだ」
そうだった、竹若くんには嘘をつけないんだ。
私は気まずくなり、非難を口にした。
「気付かないフリ、してよ」
「――これ以上、カッコ悪い自分でいるのは嫌だ」
彼はきっぱり言うと、歩み寄ってこちらの手を取った。
そして廊下を突き進んでいく。すこし遅い時間なので誰ともすれ違わない。
竹若くんはこの階の端にある、利用頻度の低い男子トイレの前まで来た。チラッと私を振り返ってから、そのまま洗面スペースに連れ込む。
うちの会社は清掃が行き届いているため、中もきれいである。
しかし、普通なら女性が入ることのない場所だ。異様な状況下、私はどうすればいいのか分からなくて硬直する。
竹若くんは手を離し、決意を口にした。
「誰も来ないと思うけど、念のため芝辻さんは隣の個室に入ったほうがいい。バカバカしくて付き合っていられないなら、出ていっても構わないよ。こんなこと、常識はずれだし」
「本当に……するの? ここで?」
「うん。勢い任せでやらないと、尻込みして、自分だけ楽な場所にとどまってしまう」
それから彼は、罪悪感に満ちた顔で微笑した。
「ごめん。こんな方法しか思いつかない」
そして、踵を返して中央の個室に入った。
私が立ち尽くしていると、カチャカチャとベルトを外す音がして、次いでジッパーも開く。ドアが閉まっているので見えないが、宣言どおりなら下着もずらしたに違いない。
竹若くんの「うっ」とかすれた声が聞こえた。
私は自由の身だから立ち去るのは簡単だ。なのに動けない。
相手が会社のトイレで不適切な行為をしている。それなのに嫌悪感が湧かない。私を思いやっての精一杯だから。
私が彼のためにしたみたいに、竹若くんもまた――。
個室の中から、しごく音と乱れた呼吸が聞こえてくる。見えなくても、私はドキドキした。
彼がなりふり構わず、こちらの心境に寄り添おうとしている。
きっと、私はおかしくなってしまったんだ。男子トイレに連れ込まれて、一人エッチの様子を聞かされて、嬉しいと感じるなんて。
誰かに見つかったら大問題だ。注意されるだけでは済まない。
だがこの場には竹若くんのひたむきさがあって、それを受け取りそこねたくないと思った。
個室のドアの向こうから色めいた喘ぎが漏れてくる。
さらに切羽つまり、竹若くんは訴えた。
「はあっ、もう、いくっ……!」
トイレの中に液体のしたたる音がした。あとは乱れた呼吸が繰り返される。
私は細いため息をついた。
スーツを整えた竹若くんが、ウェットティッシュで手を拭いながら個室から出てきた。顔を合わせた瞬間、互いに真っ赤になり、あわてて視線を逸らす。
彼が洗面所で改めて手を洗う。私は目を向けることもできない。
人の行為を知ることは、こんなに居心地の悪いものなのか。
竹若くんの弱々しい声が聞こえた。
「嫌な思い……させたね」
「ううん。がんばってくれた」
一瞬の間のあと、「はぁああ~」という嘆きがした。
私が驚いて見ると、洗面台に手をついた彼がうなだれる。
「言い出したくせに、自慰したのを知られるとか死ねる……」
「だ、大丈夫だよ、きれいさっぱり忘れるから!」
「芝辻さんの気持ち、なんにも分かってなかった。経験してやっとだ。こんな思いさせてたんだ……」
「えぇとね、私はしてるところを聞かれたわけじゃないし! 竹若くんのほうがダメージ大きいよ? すくなくとも、これでお互いさまだから、気持ちが楽になった。ありがとう」
けれど、竹若くんはまだ落ち込んでいる。
「俺、会社を辞めるべきなんじゃ……」
「え、待って。ダメだよそんなの」
どうすれば相手を立ち直らせることができるのだろう。うまい言葉なんて思いつかない。
だから促した。
「こっちを見て」
彼はすぐには反応しなかった。やがて、叱咤されるのを覚悟したみたいな表情で、こちらを振り返る。
私は冷ややかな言葉をぶつけた。
「竹若くんさえいなかったら、普通に働くことができたのに。あなたのせいでメチャクチャ。だから、いなくなくなって」
「芝辻さん……」
「いまのが本心かどうか、あなたなら分かるでしょ?」
竹若くんはこちらの頭上を窺った。
そして、ホッとした様子で肩の力を抜く。
「怒ってない。……どころか、あったかい気持ちになってる」
「だって、私のために努力してくれた。どうして恨まないといけないの?」
「――そっか。俺、芝辻さんを傷つける以外のこともできるんだ」
「竹若くんはいつも、なにができるか考えてる。たしかに困った状況だけど、あなたの思いやりが分かるの。それに、さっきので『知ってしまう立場』も分かった。教えてもらってよかったよ」
こちらから笑いかけると、彼はさらに穏やかな表情になった。
だが、不意に顔を赤らめる。
「竹若くん、どうかした?」
「えぇと、嫌われなくてよかったんだけど……」
竹若くんはしばらくためらったあと、消え入りそうな声で告げた。
「芝辻さんの数値が、いまので……。俺、よけいな刺激を与えたらしい」
「……ええっ、ほんとに!?」
個室の中から漏れる音や声を聞いて、興奮したのは否定できない。
そういえば、『すごく高いわけじゃないけど、それなり』の値なんだった。さっきの出来事で押し上げられたのか。
私は反射的に言い訳した。
「だって、竹若くんの息遣いが色っぽかったから! あと、私のために勇気を出してくれて、嬉しくてもおかしくないでしょ!?」
彼はどういう顔をすればいいのか分からない、という面持ちだ。
「まぁ、ドン引きされなくてよかった」
「そういうのを聞くのが好きってわけじゃないんだよ!?」
「うん、分かってる。大丈夫」
でも数値は大丈夫ではないのだ。
刺激された自分と、それを察する相手。なんて厄介な関係だ。
私はやけくそになった。
「どっちみち、するんだから、上がったほうが好都合じゃない!」
竹若くんはビックリしたあと、発言がツボにはまったらしく、肩を震わせて笑った。
「やっぱり芝辻さんは強いね。俺もクヨクヨしていられないな。白状すると、カノジョとかいないから、ときどき自分で処理している。だから、芝辻さんも自己嫌悪に陥らないでほしい」
「うん」
彼が元気を取り戻したので、私は安心した。
トイレを出たとき、竹若くんは仕事を思い出して憂鬱な顔になった。
「最低限だけ片付けて、帰るよ」
「がんばって」
私たちは廊下で別れた。
数値が上がってしまったからには、一人エッチをしなければならない。そして行為にふけったことを、翌日には彼に知られる。
やっぱり恥ずかしい。
だがこれまでに比べれば、逃避したい気持ちは小さくなっていた。
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