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犬神
アイツの正体を僕は知っていた。
あの男は僕では埋められない君の心の隙間を狙い、入り込んできた。
紗亜弥はあの男との事を僕に笑いながら話してくれたよね。
頭数合わせで誘われた初めての合コンで出会った事。決してイケメンではないけれど、一緒に居て安心できる相手だっていう事。小さなIT企業の社長だってこと。
あの時は僕も本当に嬉しかったんだ。
だって、パパとママが居なくなってから久しく紗亜弥が見せた事の無い、飛びきりの笑顔だったから。
そして僕をその相手と会わせてくれた時。
僕は――とても不安でしょうがなくなって、思わず噛み付きそうになったんだ。
だって、いい歳なのに噎せ返るほどムスクの匂いをさせている男にマトモな奴は居ないから。サラダを食べているモデルの笑顔よりも信用出来なかったんだ。
はじめの頃は三人一緒に出かけてくれる事が多かったんだけれど、僕はアイツを紗亜弥に近寄らせたくなくて冷たい態度を取り続けていたら、そのうち段々、僕だけ留守番をさせられるようになった。
そして紗亜弥が家に帰ってくる時間が夕方から夜中、そして次の日の朝、とだんだん遅くなってきて、紗亜弥の匂いの中にアイツの匂いが混ざるようになっていった。
それが何を意味するのかは僕にだって分かった。張り裂けそうな気持ちだったけど、それでも飛びきりの笑顔でアイツの話をする紗亜弥を。
僕は守りたかったんだ。
あの日、紗亜弥は僕の頭を膝に乗せながら教えてくれたよね。
「ねぇ――彼の会社がね、不渡りを出しそうなんだって」
『ごめんね。それが何なのか、僕にはよく分からないんだ』
「それで…今日ね、500万貸してくれないかって頼まれちゃった」
『おかね?まさか、貸すなんて言わないよね…?』
「私…お金、貸してあげようと思うんだ」
『そんなのダメだよ!パパとママが残した大事な――』
「だってね!?それさえ乗り切れば、来月には新しいプロジェクトを担当する事が決まっているんだって!それを成功すれば、もっと会社を大きく出来るんだ!って彼、目を輝かせながら言うの。社員の人達もいい人ばかりだし…」
『そいつら全員仲間なんだよ!みんなで君をダマそうとしているんだよ!』
「私、彼の役に立ってあげたいの」
『やめて!僕はあいつが悪い奴だって知ってるんだよ!だから止めて!』
「招来の旦那様になる人だし、信じてるからね」
『あんな奴より…僕を信じてよ…?』
「だから、言ってくるね。留守番お願いね?」
『ダメだって!行っちゃダメだよ!行かないで!』
僕はどうにかして引きとめようとしたんだ。けれど。
それでも紗亜弥は出て行ってしまった。
紗亜弥はあの男に騙されている。
気付いているのは僕だけだけど、紗亜弥に僕の声は届かない。
僕がどれだけ思いを伝えようとしてもそれは届かない。
こんなに近くに居るっていうのに、僕と紗亜弥との間には超えられない大きな壁があるから。
犬にヒトの言葉は話せない。
行く手を塞いだり袖を噛んで引きとめようとしたけれど、最後には僕を叱り付けて1人で行ってしまった紗亜弥。
本当は秘密だったんだけど、一人で窓を開けるのは上手なんだ。
紗亜弥の匂いを追って走ると、紗亜弥とあの男がお店の前で別れるところを見つけることが出来た。あの男は紗亜弥が持っていたバッグを大事そうに抱えていたよね。
あいつは笑顔を浮かべていたけれど、僕にはその顔が途轍もなく邪なものにしか見えなかった。
紗亜弥の前ではしないと思っていたはずだったのに、我慢が出来なくって僕は飛び出したんだ。
本当は喉笛に噛み付いてやりたかったけど、僕が噛み付けたのは腕だった。
噛み付いて、振り回し、暴れてやった。
生きた肉って意外に弾力があるんだね。思っていたより少しだけしか千切れなかった。
そしてもう一度、今度はもっと抉ってやろうと噛み付いた時、焼けるような痛みがお腹を貫いた。
人間は牙も爪も無いから、と油断していた。奴はいつの間にか刃物を持っていたんだ。
けどそのおかげであの男はバッグから手を離していた。
僕はお腹の痛みを堪えながら男を威嚇してバッグに近付き、それを咥えると紗亜弥の所に向かったんだ。
「ありがとう」「偉いね」って褒めてもらえると思ったから。
でも紗亜弥は、怖いものを見るような眼で僕を見て後ずさった。
笑顔どころか泣き出しそうな顔をしていた。
僕は訳が分からなかった。
君を助けたのに。お金を取り返してあげたのに。
何でそんな悲しい顔をしているの?
どうして僕をそんな怯えた目で見るの?
僕は紗亜弥を助けちゃいけなかったの?
思っても居なかった紗亜弥の態度に僕が動けずに居ると、後ろからあの男に背中を何度も刺された。とても苦しくて痛くて、紗亜弥を見たんだけど――君はただ怖いものを見るような、怯えた眼で僕を見ているだけだった。
だから僕は逃げた。必死で逃げた。
紗亜弥はもう僕を褒めてくれないと分かったから。
傷の痛みを慰めてはくれないと分かったから。
それでもあの男が笑うのだけは許せなかった。だから鞄の紐を首に通して逃げたんだ。
雨には濡れないけどゴミと汚物と鼠の臭いが入り混じる路地に座り込むと、努めて忘れるようにしていた胸の痛みが余計に辛くなって、目の前がクラクラと揺れたんだ。
一度身体の痛みに敏感になってしまうと、今まで我慢していた心の痛みも余計に膨れ上がってきたみたいで、僕はとうとう泣き出してしまった。
どうして僕の声は届かないの?
どうして紗亜弥は僕を振り切って騙されに行ったの?
どうして僕には――紗亜弥を助けられないの?
冷め切って冷たい、けれど煮え滾るように熱い。我を忘れてしまいそうな激しい思いが自分の中で暴れていた。
僕は堪らず――吠えた。精一杯、吠えた。血を吐いても吠えた。
これが悔しい、という気持ちなのか。
これが悲しい、という気持ちなのか。
今まで僕を愛してくれた紗亜弥に恩返しも出来ずに、このまま死んじゃうの?
これが――怨めしいという気持ちなのか。
そんな時。
あれは本当に蝶々だったのかな。いや、蝶々はあんなにキラキラしていないよね。
つい吠えるのを止めて、綺麗だなと霞む眼で眺めていたらね、君の声が聞こえてきたんだ。
怨む相手が居るのなら
殺したい程に
死んでしまいたい程に
赦せぬ相手が居るのなら
しるし一つだけ持ち来たれ
汝が怨みは祟りへと変じ
祟りは相手を滅ぼすだろう
怨みひとつだけ持ち来たれ
そして声の最後に、ふわりと花の匂いが漂ってね。そして全て分かったんだ。
「この花の匂いを追えばいい」んだって。そうすれば君を守れるって。
君を守れるのなら、僕はどこへだって行ってみせるよ。
例えそれが天国じゃないとしても。
そして僕は、雨の中をも薄れない匂いを頼りにして――ようやく辿り着いたんだ。
そこは、花の香りと甘い食べ物の香り。そして数多の悲しみの残り香が漂っていた。
ここで間違いないみたいだ。入口の脇に同じ匂いの花も咲いている。
雨はまだ降り続いていた。
僕は入口脇の花壇から紫色の細い茎をした草を一輪、咥え取って足元に置いた。そして店先に座り、人を呼ぼうと声を上げたんだ。だって、ずぶ濡れの犬がいきなり入ってきたら驚くでしょ?
本当は声を上げるのも辛かったんだ。声を上げるたびに刺されたところから命が抜けるように痛んだから。
でも、少ししたらお店の人が出て来てくれた。小さい動物も一緒だった。
この人のペットなのかな?って思ったんだけど、普通のペットとは違う感じだった。しかもその子は…狐、なのかな?額にも目があってね。しかも種が違うのに、僕の言葉が分かるんだよ。驚いたな。
『そのままでいると死んじゃうよ。拭いてくれるみたいだから中に入って。話を聞いてあげる』
小さな狐はそう僕に教えてくれた。
『言葉が分かるの?!』
飛び上がるほど嬉しかったけど、そんな元気はもう残っていなかったよ。
『紗亜弥の声と花の匂いでここまで来たんだ。ここなら…と直感して。実は――』
何があったのかを説明しようとしたら、その狐に止められた。
『無理はしないで。何があったかはもう分かっているよ。記憶を覗かせて貰ったから』
その狐が顔を上にしゃくると、ボールにヒレをつけたような不細工な丸い魚が宙に浮いていた。そして、目が片方無い、とかじゃなく本当に一つしかなくって、その目が光って僕の方を向いていた。
『辛い目に遭ったみたいだね…』
小狐は僕の身体にある刺された傷を見ながら言った。丸い魚は家の奥に空を泳いで行ってしまった。その間にも、優しそうなお姉さんが僕の身体を拭いてくれていた。今更気にしないし、拭いたところでこの身体の冷たさは元に戻らないと思ったけど、優しい匂いとふわふわなタオルが気持ち良かったな。
黙って身体を拭いて貰っていると、さっきの小狐が再び僕に話しかけてきた。。
『僕達は君の命を救えはしないけど、無念を晴らすことは出来る。そういう人達が居るんだよ』
飼い主さんの話を聞いていると、この狐の名前はサン、というらしいが、そのサンが僕に教えてくれた。
『ねぇ…あの子が言ってたんだけど――「祟り殺す」ってどういう事?』
理解が難しかった事について尋ねると、サンは快く教えてくれた。
『相手を殺してやりたい…って思っても、思っただけじゃあ相手は殺せないよね』
サンの答えに、僕は黙って頷いた。
『ここでは、その「相手を怨む気持ち」を“妖怪”っていう現実のモノに変えて、その思いを叶える場所なんだ。僕らはそのワザを「祟り」と呼んでいるよ』
その“妖怪”というのが何なのかは分からなかったけど、僕の思いをホンモノにしてくれる所だという事――あの男を殺してやれるって事だけは理解できた。
『それでね…言い難いんだけど、君はもう保たないと思う…』
申し訳無さそうにサンは言ったけど、僕は家を飛び出した時から覚悟は出来ていた。
『気にしないで。覚悟はしていたから』
そう答えたときだった。
目の前に神様が現れたのかと思ったんだ。
だって…犬の僕ですら見蕩れるほどに美しい人の女が現れたんだから。
腰にまで届くかという長い髪。透き通る肌。吸い込まれてしまいそうな、その黒い瞳。
呼吸すら忘れてしまいそうな程に美しい人間の女性から眼が離せずにいると、その女性は僕の前へしゃがみ込み、僕の首をそっと抱き締めながら話し出した。
僕は血が抜けすぎて頭もフラフラしていたんだけど、彼女の体温と言葉がまるで身体に――いや魂に響くように、僕の身体の中に染み渡っていった。
「死を目前にしても忠義を果たそうとするその心…お見事です。貴方には行く末を――祟りを選ばせてあげましょう」
そして、頬を寄せながら紡がれるその言葉は、その美しさとは裏腹に、骨の髄まで凍りつく凄烈さを秘めていた。
「最早朽ちて捨てるだけとなった貴方の血と肉を贄とするのです。さすれば『祟り』は更に強力なものとなるでしょう」
その時、この女の人は神様なんかじゃない。むしろその反対側に居る存在なんだって分かった。だって、僕の首を抱いてそう言った時、彼女からは『楽しんでいる』匂いがしていたから。
彼女の話はつまり、どうせ死ぬ身ならその血肉を使って、より強い“祟り”にしないか、という事だった。
また痛い思いをするのかなって不安になったけど、でも僕のこの思いを――怨みを晴らせるのはここだけで、僕にはもう時間すらも残されては居ない事は分かっていた。
彼女は、首に抱き付く腕を離し、僕の眼を真正面から見て言った。
「選ぶのは貴方です」
そんなの決まってる。
僕は――
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