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「先輩、やっぱりまたここにいた! 部長に怒られますよ」
真昼間の空き教室。美術室のふたつ隣。ガタガタと重い引き戸を開けると、探し人は窓枠に腰掛けて目を細めながら、穏やかな風を浴びていた。思いっきり寛いでいる。
「ここが一番涼しいからね」
探し人は悪びれもなくこう言いながら、ゆるりとこちらを向いた。夏の日差しが先輩の真っ黒な髪に溶け込んで、少し眩しい。
確かに、この教室は近くにある大木の影が校舎まで伸びているし、窓の外には朝顔で彩られた緑のカーテンも植えられている。風通しだって申し分ない。それに普段から出入りも無いに等しいから、人の気配や体温も感じられない。
日常生活から閉ざされた空き教室は、冷涼感が篭っていて、少し涼むにはもってこいの場所だ。
しかし、それとこれとは話が別。ここでいつまでも油を売っていたら、私まで部長に叱られてしまう。
「暑いからって、流石に怠けすぎじゃないですか? もうすぐ部活始まりますよ」
夏休みだからと張り切る部長は、いつも以上にエネルギーで満ち溢れていた。秋にはコンクールだって控えている。三年生にとっては、中学校最後の大会。出来るだけ面倒ごとは避けたいのだ。
「まあまあ」
ようやく観念したのだろうか。窓枠からゆっくりと降りてきた先輩は、近くの机にポツンと置かれていたビニール袋を手に取った。
「ところでさ、アイス食べない?」
口元に三日月のような笑みを浮かべながら、真っ白な袋をゆるりと揺らす。ああ、さっきと同じ顔だ。まだ真昼間で、高く昇った太陽はカンカン照りにその職務を全うしているというのに。
「もう。一体どこで冷やしていたんですか」
そっち、と先輩が指さしたのは、隣の美術室準備室。確か準備室には、美術教師兼顧問が持ち込んだ私物のミニ冷蔵庫がある。
また部長の怒りの種がひとつ増えた。
「バレなきゃ大丈夫、大丈夫」
先輩は二つのアイスクリームを取りだし、目の前にある机に並べた。バニラ味のクッキーアイスとソーダ味の棒アイス。随分と系統の違う品物だ。もしかして、この欲張りな先輩は二つとも食べるつもりだったのだろうか。
「どっちがいい?」
俺は先輩だからね。可愛い後輩に先に選ばせてあげよう。
まるで自分は立派な先輩だとも言いたげなこの台詞。今していることは、ちっともご立派な行為ではない。むしろ、後輩を悪の道へと誘おうとする不良に近いものを感じる。うちの中学校では、お弁当と水筒以外の飲食物持ち込みは校則違反。先輩ならもう少しそれらしい振る舞いをして欲しいのだが。
私、食べるなんて言っていませんけれど。
ため息を零しながらそう言いかけた瞬間、先輩がバリバリとアイスの袋を開けてしまった。それもひとつでは無い。両方ともきっちり封を切ってしまっている。
一体何をしているんだ。目の前にいる元凶を軽く睨んだけれど、先輩は全く笑みを崩さない。早くしないとアイスが溶けてしまうと言いたげに、じっと私を見つめている。
何だか、もう馬鹿らしくなってきた。
炎天下が続く今日この頃。気温は毎日三十度を越えている。コンクリートさえ溶かしてしまいそうなこの暑さで、私の頭がやられてしまっていてもおかしくは無い。
暑さによってグダグダに茹で上がった私の頭が選んだのは、ソーダ味の棒アイス。勝手に開けられてしまった袋からそっと取りだし、口に含む。冷たくて美味しい。
これは、アイスが溶けてしまったら勿体ないと思ったゆえの行動だ。決して他意はない。先輩の手によって哀れにその口が開かれたアイスを救うため、仕方なくだ。
そう自分に言い聞かせながら、アイスを齧る。小さな氷の粒が口の中で次々と溶けていく。舌が冷え始めると、私の頭も段々と落ち着きを取り戻してきた。
先輩は静かにクッキーアイスをほおばっている。まるで子どものようだ。邪気のない笑顔を見ていると、なんだか怒る気力さえ起きなかった。
お互いに何も喋らず、何も言わず。大木にとまった蝉の声を聴きながら、ただ目の前のアイスに集中した。しんと静まり返った教室が、少しだけ心地よい。
蝉の声に混じり、校庭に響き渡る運動部の声が聞こえてくる。野球部だろうか。微かに聞こえた楽器の音は、おそらく吹奏楽部。まだ午前九時だというのに。こんなに暑い中ご苦労なことだ。涼しい部屋でアイスを齧っているのが、何だか申し訳なく思えてきた。
最後の一口が終わり、アイスの袋と木の棒をビニール袋へと放り込む。ここで捨てるのはまずいからと、家まで持って帰るらしい。そういう所はちゃっかりしている先輩だ。
「さて、そろそろ行きますかね」
ゆっくりと身体を伸ばした先輩に続き、空き教室を後にする。見慣れた廊下を歩くと、瞬く間にいつもの日常が戻ってきた気がした。夢から醒めるときと同じ感覚。平べったい安心感に、こっそりとため息を落とす。
「今度は何味がいい?」
美術室のドアを開ける前。先輩はぬけぬけとこんな事を聞いてきた。浮かべている笑みは、アイスを食べていた時と同じだけれど、どこかが違う。孤を描いた唇。ゆるりと細まった目元。また夢の中に引きずり込まれそうになる。
心臓がドクドクと煩い。アイスを食べたというのに、頭の中がまたぐずぐずと渦巻いている。分かっているのに、気づいてしまったから。
最終的にアイスを食べるという選択肢を選んだのは私自身。分かっている。だけど、しょうがない。他の誰かに秘密で何かをする時は、いつだって心が踊るのだ。だって、そういうお年頃だもの。
たった一本のアイスキャンディーだけでは、私の頭を冷やしきれないみたい。
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