1/1
491人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

 お気に入りの香水なのか、奏からした香りが車内に漂っていて、思わず先日の痴態が目を浮かんできて顔を振って払った。 「まさかこの前ヤッたのが気に入ったなんて言うなよ」 「そのまさかだと言ったら?」 「っっ…!! 」  絶対そんなハズはない。  遊び慣れた男、体の欲求を満たす相手なんて掃いて捨てるほどいるはずだ。 「……何考えているんだ? 結菜の会社とはトラブルなく断ったんだろう。俺は金も力もないしがない学生だ。あるのは健康な体くらいだ」 「だから言っただろう。その体が気に入ったんだって」  何か飲んでいたら噴き出していただろう。そんなはずはないと頭がフル回転して考える。俺を利用してこの男になんの利益があるのだろうか。  奏はクスッと笑って俺の頬に手を当てて、まるで猫でも撫でるみたいにスッと滑らせてきた。 「お前は? 気に入らなかったのか?」  なんて事を言うのかと、俺は目を見開いた。  その目に光る絶対的な自信に抗いたいのに、とても対抗できないと振り上げた武器を下ろしてしまう。これが支配者として君臨している男だということか。 「ああ、気に入ったよ。悪いか?」  それでも抗いたくて、挑発的に言って奏の眼鏡を取った。  スーツのポケットにねじ込んだのが合図だ。  お互いずっと我慢して求めていたような激しいキスが始まった。  噛み付くように唇を合わせて舌を絡ませ合い、何度も角度を変えて吸い付いた。  どちらとも分からない唾液をごくごくと飲み込んで、悦に浸っていると、奏は興奮したように硬いモノを俺に押し付けてきた。  目が合ったらもう止まらない。狭い後部座席で体を打ちながら、覆い被さってきた奏のキスを受ける。  気持ちよくてたまらない。  俺は奏の背中に手を伸ばして抱きついて、夢中でキスに応えた。  昼間からホテルになだれ込んで、ベッドの上で二回、風呂場でシャワーを浴びながら一回。  まるで覚えたての学生のように奏は体を繋げてきた。  アソコもデカイくせに絶倫とは、恵まれ過ぎていてちっとも羨ましくはない。 「そろそろ教えてくれてもいいだろう」 「何をだよ」 「お前の名前だ」  風呂場で喘がされてのぼせた俺は、水を飲まされてベッドに転がっていた。いつもは後ろに撫でつけている黒髪をタオルで拭いた後、奏はぎしぎしとベッドを揺らして俺の後ろに寝転んだ。  奏の前に垂れた前髪が少し幼く見えてドキッとしてしまった。  俺の家の近くで待っていたくらいだ。  どうせ全て調査済みだろう。わざわざ俺の口から言わせたいとは、とことん変なやつだと思った。 「涼介だよ。結城涼介、どうせ知ってんだろう」 「涼介」  ゴソゴソと動く気配がして、耳元で俺の名前を囁かれた。  心臓がドキッと揺れてどんどん強く動いていく。 「綺麗な名前だ」 「な…名前が?」 「もちろんお前も綺麗だけど、いい名前だ。よく似合っている」  そんなことを言われたのは初めてだった。  たかが名前だ。特別なモンなんて何もない。  それなのに、この男に呼ばれると、まるで自分が特別なものになったような気持ちになる。  こんな男に心を許してはいけない。  掃いて捨てられる一人になるはずだ。  それなのに耳元で囁かれた声が心地良くて、もっと聞いていたかった。 「なぁ」 「なんだ?」  俺は酔っている。  アルコールは一滴も入ってないが。  俺はきっと酔っているんだ。 「もう一回…名前、呼んで……」 「何度でも」  耳元で何度も名前を呼ばれた。そのまま唇が重なって、再びあの大きな手で快感の世界へ誘われる。  俺を貫いて果てる時も、奏は俺の名前を呼んだ。  強い酒で頭がおかしくなったみたいに、俺は喘ぎまくって、奏にしがみついて果てた。  こんなのは知らない。  もう戻れなくなりそうで怖くて仕方がなかった。  次の週末も、その次の週末も、計ったように俺が外に出ると、黒塗りの高級車が横付けされた。 「あのさぁ…暇じゃないよね?」 「ああ、めちゃくちゃ忙しい」 「………何やってんだよ、御曹司が俺なんかに構って……」 「楽しいんだから仕方がないじゃないか」  そう言われたら返す言葉がなくて、俺は諦めて前方の絶景に目を移した。  今日は車に乗せられたと思ったら、ずいぶん遠くまで走って山の中のキャンプ場まで連れてこられた。  お坊ちゃんのキャンプは、テントを作るなんて作業はカットするらしい。  すでに全てセッティング済みで、火まで用意してあって、そこで食材を焼いてバーベキューを楽しんでしまった。  この特異な状況をごく自然に受け入れられるようになった自分を褒めたい。  そして、これを見せたかったらしいが、目の前に山と山の間にゆっくりと沈んでいく夕日が見えた。  キャンプ用の椅子を並べて二人で鑑賞するというよく分からない状況だが、絶景に罪はない。  空が赤く染まり夜に姿を変えていく様子をこんなにまじまじと見たのは初めてだった。  都会に住んでいると、自然の中で生きているという感覚を忘れてしまう。  お互いしばらく無言で、夕日が完全に沈んでしまうのを静かに見守った。 「時々この景色を見に来るんだ。俺は気楽な立場なんて言われているが人一倍努力してきた。うるさく言うヤツらに、時々、どうだこれだけやったんだ、凄いだろうなんて叫んでやりたくなることがある。でもそれじゃダメなんだ。仕事で、結果で目にみえるように認めさせないと。だから必死にやっているが、たまに糸が切れたようになる時があってな。そういう時はここに来る」  奏が言っていることはほとんど理解できなかった。上に立つ者が見る世界の話だ。俺みたいな底辺で生きている人間には上空で何をやっているかなんて知る術もない。  それでも何かを必死で頑張っても、なかなか認められない悔しさや苦しさは多少理解できた。 「奏みたいな凄い話じゃないけどさ。何となくは分かるよ。俺も褒められたくて必死に勉強して満点取ったり、試合で点を取ったり、親の手伝いしてみたりさ……。それでも、継母も父さんも振り向いてはくれなかった。すごいね、頑張ったねって……一度でいいから言われたかった。確かにこの景色はいいね。大きな悩みも小さいものだって思わせてくれる………」 「涼介………」  奏が手を伸ばしてきて、俺の頭をわしゃわしゃと大きな手でかき回すように撫でた。 「よくやったな。頑張った」 「は?」 「一度でいいから言われたかったんだろう」  ドクンと心臓が跳ねて、胸が苦しいくらいにうるさく鳴り出した。 「まあ、俺は一度じゃなく、何度でも言ってやる。涼介にうるさいって嫌がられても」 「はっ……なっ……なんだよそれ」  夕日が寂しくさせるのがいけない。  こんな切ない気持ちになっている時にずるい。  俺は目尻に浮かんだものに気づかれたくなくて下を向いた。 「涼介、こっちを見てくれないのか? せっかく褒めてるのに」  まったく俺を振り回してばかりの自分勝手なやつだ。……それなのに、なんでこの男の言葉はこんなにも俺の胸を打つのだろう。  やられてばかりでなるものかと俺はバッと顔を上げた。  とっくに沈んだ夕日を背中にして、奏の座っている椅子に乗り上げて、向かい合わせで膝に座った。 「なんだ? 急に欲しくなったのか?」 「……奏、奏は凄いね、頑張ったね。叫ばなくてもいいんだよ。いつだって俺が褒めてあげるから」  いつも鋭くて隙のない奏の目が、大きく開かれて驚いたような顔になった。少し幼く見えるその表情がたまらなく愛おしく思えてしまった。  すかさず唇を合わせてキスをした。眼鏡が当たってちくっと痛かったけど、それもなんだか嬉しく思えた。 「えへ……仕返し」 「……この、可愛いやつめ」  奏は無防備な表情で目を細めて笑った。いつも周りを睨んでいるような男が、こんなに柔らかく笑うのなんて知らなかった。  すぐに頭を押さえられて激しいキスをされた。頭の先から足の先までグズグズになってしまうみたいなキスが始まれば、夕日が沈んだことが合図みたいに、俺達の夜が始まった。  熱い熱い夜に、ぐちゃぐちゃになって、どちらがどちらの体なのか分からないくらい溶けていった。 「涼介、聞いてる?」 「ああ、ごめん。何の話だっけ?」 「週末の話よ、手伝いに来てくれる約束でしょう」  結菜と二人で駅に向かって歩いていたが、すっかり考え込んでいて話を聞いていなかった。  週末、と聞いてこのところずっと俺の週末を独占してきた男の顔を思い出してしまった。  大企業の経営者一族、絶対忙しいはずだが、この二ヶ月、毎週末は俺を迎えに来て連れ回していた。  女装している時もあったし、普段の格好の日もあったが、あいつはどちらでもお構いなしに俺を抱いた。  この関係を何と言うのかは知っている。  いわゆる、セフレと言うやつだ。  正直なところ、奏とのセックスは最高に相性がいい。  肌が合う、と言うのはこういうことなのだと初めて感じた。  指一本触れただけで、アソコが熱くなる時もあるし、トロンと頭が溶けて眠くなるくらい癒される時もある。  とにかく、ずっと触れていたい。  こんな気持ち初めてだし、会えば体でぶつけてしまうけど、この関係を言葉にして確認することができない。  俺はセフレだからと言葉にして言われたら、ハイそうですかと受け入れられるような割り切った考えの人間じゃない。  はっきりそう告げられたら、もう終わりだと思っている。  だから、甘い雰囲気になるとわざと突き放して、明確にしないようにして、ずるずると関係を続けてきた。  奏はどうやら、セフレにもまめな男で、毎日のようにくだらない連絡をしてきた。  返事をしなくても、何度も送ってくるので、うるさいと返したほどだった。  しかし、この二週間、奏からの連絡が途絶えた。  毎日うるさいくらい連絡してきたくせに、パタリとそれが無くなった。  そして、週末も姿を見せなかった。  気になって仕方がない。けれど自分からメッセージを送ることができない。  もし、既読にすらならなかったら……。  怖くて手が震えて文字が打てないのだ。  これが何を意味しているのか、大人なら分かるのだろうか。  俺は子供だからと目を瞑ってしまいたいけれど、目を瞑ったとしてもハッキリと見えてしまう。  だって、毎週約束なんてしていない。  いつもアイツがフラっと来るだけでお互いの部屋に寄ったこともない。  体だけの関係。  そんなもの、求めてなんかいなかったはずなのに……。  気がつけばもう戻れなくなっていた。 「ああ…、確か道具は全部揃ってるんだったよな」 「そう、普段着で身一つで来てくれればいいから。美味しいものもたくさん出るみたいだし、涼介も楽しんで行ってよ」  よろしくと言いながら結菜は足取り軽く手を振って走っていった。  結菜は両親との交渉を重ねてついに恋人との交際を認めてもらった。  父親の会社が出資する事業のパーティーで恋人を婚約者としてお披露目する予定になっていた。  俺はそのパーティーで結菜のメイクを担当するために呼ばれていた。結菜は俺の手であれば触れられても大丈夫になっていた。  ついでに結菜の女友達のメイクもやって欲しいと頼まれていて、裏方として忙しくなりそうだった。  少しは気が紛れるだろうと思いながら、メッセージが途絶えたスマホの画面を見続けた。  パーティー当日、朝から控え室に入り、バタバタとレディー達の準備が始まった。 「ねぇ、これじゃ派手すぎない?」 「可愛いって、こんなに目が大きくなるの? 凄い感動!」 「えっ、すごい合ってるよ。涼介くん、すごいね。プロじゃないんでしょう、上手すぎる」  結菜のお嬢様友達は、ただの素人の俺がメイクをすると聞いて最初は嫌そうな顔をしていたが、実際完成したらたいそう喜んでくれた。 「凄いでしょう! 私がメイク上手くなったのも涼介のおかげなんだ。私にとっては魔法使いみたいな人」  そんな風に褒められたら嬉しいけど恥ずかしくなって、顔が熱くなってしまった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!