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老夫婦
ここは田舎町である。
路線バスは四十分に一本程度、近くに電車もなく、ましてや地下鉄なんてものはない。
最寄りの駅までは、車で二十分ほどかかる。
だが、景色は壮観で心地よい。
澄んだ青空に、綿菓子のような雲がぽつぽつと浮かんでいる。
周りは山で囲まれ、それを舞台に蝉が楽しそうに音を奏でている。
まさに今、夏である。
この日、七月二十五日は、昌爺こと福宮昌人は八十四歳の誕生日を迎えた。
四年前に肺ガンが見つかり、大好きだったタバコを辞めた。
今は近所の人達と将棋を指す事だけが楽しみである。
髪の毛はかなり薄くなってしまった。
頭にかいた汗はそのまま顔に流れ、将棋盤に垂れてしまう事が、最近の悩みである。
昌爺の妻、夏江との出会いはお見合いだった。
強面で頑固で不器用な昔気質の昌爺だが、夏江はそんな昌爺が、時折見せる笑った顔がなんとも可愛く大好きだった。
夏江は昌爺の一つ年下。
結婚して半世紀以上が過ぎ、ずっと側で支えてきた。
口数も少なく、不器用な昌爺の思考を、今では何となくだが、読めるようにまでなってきた。
昌爺は何をするにも夏江を呼び、夏江は常に昌爺と一緒にいた。
誕生日である今日も、いつもと変わらず自分の部屋で将棋を指している昌爺。
夏江が麦茶を持って行くと、詰将棋の本を片手に、一人で駒を並べては唸っている。
「おじいさん、麦茶ここに置いておきますよ」
夏江は、将棋盤の横に麦茶を置いた。
よほど集中しているのだろうか。返事がない。
「今日は田中さん、いらっしゃらないんですか?」
夏江が聞くと
「今日は畑があるから来んと言っとった」
将棋盤を見たまま昌爺が答えた。
「そうでしたか。そういえば、おじいさん今日は誕生日ですね。おめでとうこざいます」
「ふん。この年になって何がめでたい」
昌爺は麦茶に手を伸ばしながら言った。
「そう、おっしゃらずに。肺ガンが見つかっても、こうして元気に暮らせている事がなによりおめでたいじゃないですか」
夏江がニコっと笑うと
「俺はもう、いつ死んでも構わん」
と、昌爺は言った。
「そんな寂しい事言わないで下さいな。それじゃあ私は、おじいさんが少しでも長生きできるように、栄養たっぷりのご飯作りますからね」
夏江はそう言い残し、部屋を出て台所に向かった。
昌爺は嬉しかった。
こんな偏屈で、素直になれない自分の誕生日を覚えてくれていた事。
そして、それを喜んでくれている夏江の優しさが、本当は痛いほど嬉しい。
昌爺の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
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