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病院と宣告
病院に到着したのは二十分後だった。
田舎町には救急搬送に対応した大きな病院などあるはずもなく、隣町の病院に搬送されたのだ。
初めて訪れる大きな病院。
昌爺が検査を受けている間、夏江は待合室で待つように促されたので、その間に、泰子と勝久に電話をかけ、病院にいる事を伝える事にした。
広く綺麗なこの病院は、地下一階と地上九階の十階建てである。
地下にはコンビニやレストランがある。
コンビニの目の前には広いフロアがあり、テーブルとイス四個の組み合わせが十組ほど置かれている。
そこでご飯を食べている人もチラホラおり、見上げると三階までの吹き抜けになっていて、とても開放的な空間である。
平日の昼間だからだろうか。
受付カウンターは、たくさんの人で溢れている。
その受付カウンターが待合室にもなっているのだが、自動精算機の前にも行列が出来ており、ここで電話をかけると迷惑になると夏江は感じたのだろう。
一旦、外に出て電話をかけた。
昌爺の検査が終わり、夏江が医師から呼ばれた時には、泰子も病院に来ていた。
救急車で搬送されてから、実に一時間が過ぎていた。
二人は医師の元へ行き、説明を受けた。
昌爺の肺ガンは進行していた。
胸壁に浸潤しており、骨転移が見られるとの事だった。
胸壁とは、胸の内臓を囲む骨格と周囲の筋肉や皮膚による壁の事である。
確かに以前、肺ガンと診断された時と比べると、ここ最近の昌爺は咳がひどかった。
そして、医師は夏江と泰子にある事実を告げる。
「非常に申し上げにくいのですが、肺ガンはもう治療が出来ないと思って下さい。ガンの転移も複数箇所で確認出来ます。ご高齢ですし、どこまで体力が持つか――」
その医師の言葉に、泰子が思わず口を開いた。
「ちょっと待って下さい! それってもう何も治療しないって事ですか?」
「はい、そういう事になります。正直に申し上げますと、もう手の施しようがありません」
俯いた医師の言葉に、重く冷たい空気が部屋を包む。
そんな中、夏江が静かに口を開いた。
「あの、先生。おじいさんは、あとどれくらい生きられますかね?」
「そうですね……。 半年持てばいいかと思います」
「そうですか。分かりました」
夏江は歯を食いしばり、必死に涙を堪えていた。
楽しい時間をもっと一緒に過ごせると思っていただけに、あまりにも辛い宣告だった。
心が今にも張り裂けそうで、初めて目の前が真っ暗になる事を、夏江は体感した。
一つだけ、どうしても聞いておきたい事があった。
夏江は静かに口を開き
「先生? あの、おじいさんの最後はやっぱり苦しむんですか? 痛いんですかね?」
その声は震えていた。
「今日のように呼吸困難になると、かなり苦しいと思います」
医師の言葉を聞いた夏江は
「それじゃ先生、私のお願いを一つだけ聞いてもらえませんか?」
と、言った。
「伺います。なんでしょうか?」
夏江は一呼吸して
「延命治療はしないで下さい。最後は出来るだけ安らかにお願いします。おじいさんが何度も苦しむ姿なんて、私見たくありません。見てられません」
「分かりました。出来る限りの事は致します」
「ワガママ言ってごめんなさいね」
泰子は耐えきれずに、バッグからハンカチを取り出し、溢れ出る涙を拭っていた。
昌爺はそのまま入院となった。
病院を出て、着替えや荷物を取りに帰る道中、二人にほとんど会話はなかった。
泰子は夏江にかける言葉が見つからず、また、夏江も無言で俯いたままだった。
家に着き、夏江は部屋に戻ると、将棋盤へと向かった。
昌爺の定位置に座り、ぬるくなった麦茶を口に含んだ。
風はなく、風鈴も止まっている。
昌爺がもうすぐいなくなるという現実と、五月蠅い静寂がたまらなく怖いのだろう。
自分だけが取り残されたような感覚の夏江は、もう堪える事が出来なくなっていた。
年甲斐もなく、声を上げて泣いた。
きっとその声は、泰子にも、ご近所さんにも聞こえているのだろう。
大きな雨粒のような涙がとめどなく流れ、時折見せる昌爺の優しい笑顔と「おい!」と呼ぶ声が、夏江の頭の中で、何度も何度も再生される。
急に訪れたタイムリミット。
覚悟はしていただろう。
でも考えたくなかったに違いない。
出来る事なら一緒に逝きたいとすら思うだろう。
夏江の声に共鳴するかのように、空はどんよりと雲に覆われ、いつしかどしゃ降りになっていた。
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