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お見舞い
夏江は自動車免許を持っていない。
持っていても、きっと免許を返納していただろう。
昌爺の入院する病院までを徒歩で行く事は困難な為、夏江はバスで四十分揺られて病院へ行っていた。
ここ数日、残暑が特に厳しくなってきた。
白い日傘を右手で差し、左手には昌爺の着替えを入れた大きな巾着袋。
バス停には待合室どころか、雨よけの屋根やベンチすらない。
夏江はバスが到着する五分前には、バス停に来ていた。
今年は例年にも増しての酷暑である。
八十歳をとうに過ぎた老体には、徒歩三分の距離にあるバス停に行く事でも過酷だ。
バスの中は蒸し暑い。
バス停に停まるたびにドアが開き、熱風が流れ込んでくる。
車内が冷え切る前に、次のバス停に到着するものだから、たまらない。
流れ落ちる汗をハンカチで拭きながら、夏江は毎日バスで病院に通った。
昌爺の病室は六階の北病棟。
エレベーターで六階に上がると、ナースステーションがある。
そのナースステーションを中心に、左右に伸びた長い廊下。
病室は大部屋十五室、個室五室が並んでおり、昌爺は廊下の突き当りの病室、六〇一に入院していた。
昌爺の病室に行く為には、ナースステーションの前を横切る事になるので、夏江は毎日ナースステーションで挨拶をしてから、病室に入っていた。
昌爺が入院して五日が経っていた。
夏江がいつものように病室に入ると、珍しく昌爺のベッドはカーテンで閉ざされていた。
「おじいさん、来ましたよ」
夏江が声をかけると
「おう、ちょっと待ってくれ。今、なんというか、着替えをしとる」
昌爺は慌てた様子で答えた。
「汗でもかいたんですか?」
と、夏江は言った。
「まぁ、そんなとこだ。すぐ終わる」
昌爺が答えると
「はいはい。分かりましたよ。ゆっくり着替えて下さいな」
夏江は引き始めた汗を、少し拭きながら待つ事にした。
二分もしないうちにカーテンが開いた。
「もう良いぞ」
いつもの夏爺の姿がそこにあった。
「やけに早かったですね」
夏江は、ベッドの脇にあるイスに腰掛けながら答えた。
「いや、もう着替え終わるところだったからな」
「そうでしたか。タイミングが悪かったですね」
ふふっと夏江は笑った。
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