第7話 nevermore

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 終わったレースのリプレイを大型ビジョンで観ていたら、グゥ、と腹が鳴った。  そういえば、朝からコーヒー以外何も口にしていない。  時刻を確認すると、十四時をとうに回っている。  …昼飯ぐらい、食うか。  悠真は席を立ち、下りのエスカレーターに向かった。  フードコートで注文待ちの列に並んでいると、アナウンスの音声が耳に留まった。 『…第九レース、十号馬騎乗予定の一条駿也騎手は負傷のため、桜木広大騎手に変更となります。負担斤量に変更がございますのでご注意ください。以降のレースもそれぞれ騎手変更となりますのでお知らせいたします』 「えっ?」  思わず小さな声が漏れた。  一条は先ほどの第八レースで完走し、引き上げてきていたはずだ。  …レース後に何かあったのか?  悠真は首を捻る。  後ろに並ぶ男性二人組も同じような話をしていた。  一方の男性が、一条がレース後、馬に膝を蹴られたらしい、と話している。  馬の真後ろにいなくても、横に立っていて馬から回し蹴りをくらうことはままある。  馬には何がしかの理由があるのだろうが、突然蹴られると本当に驚く。  あまりのスピードに、何が起こったのか理解が追いつかず、一瞬呆けたあと痛みがやってくる。  …膝か。厄介だな。  怪我が酷くなければいいが、程度によっては治療とリハビリで、復帰までかなりの時間を要する可能性がある。  悠真が遅い昼飯を掻き込んでいる間に、一条の怪我絡みで他レースの騎手変更も追加発表された。  メインの十一レースに関しては、疾風に乗り替わりとなった。  隣でカレーライスを食べている男性は、スマホで競馬専用チャンネルを観ているらしく、女性キャスターの声が漏れ聞こえてくる。 『…第十一レース二番、マウア号騎乗予定の一条駿也ジョッキーは負傷のため、伊佐疾風ジョッキーに乗り替わりとなりますのでご注意ください…』 「伊佐かぁ。伊佐ならまぁ買えるかぁ」  男性の小さな呟きが聞こえた。  誰に乗り替わるのか、正直不安だった。  マウアに関しては、出遅れが一番の懸念材料だ。  一条ですらあれだけ苦労しているのだ。  中々ゲートに入らず乗り替わりのジョッキーを困らせた挙げ句、盛大に出遅れてレース終了、なんてことにもなりかねない。  疾風に乗り替わりなら、買える、どころか、スタートから安心してみていられる。  一条の騎乗時より出遅れる確率は低くなり、むしろ勝機は上がるはず…。  なんて、当の一条には口が裂けても言えないが。  第十レースは唯一、疾風の乗鞍がないため、悠真はレースを観戦せず、早めにパドックへ向かった。  既に人が集まり始めていたが、人波を避けながら階段を降り、するすると前へ進む。  前に陣取っていた若者の集団が一気に離れたため、悠真は運良く最前列に収まることが出来た。  さすがはメインの重賞レース。皆、毛艶がよく、素晴らしい馬体をしている。  若干太め残りに映る馬もいなくはないが、どの馬も筋骨隆々で、胸前やトモの筋肉が発達している。  いかにも重賞級のダート馬といった感じで、間近でみると物凄い迫力だ。  マウアもパドックを周回している。  二人曳きだが酷く入れ込む様子はなさそうでホッとする。  ピカピカでよく引き締まり、他馬にもまったく見劣りしない好馬体だ。  …しっかり仕上げてきてるな。  練習熱心で真面目だったマウアを思い出す。所属が変わっても、変わらずきっちりメニューをこなしてきたのだろう。  …えらいぞ。稽古よく頑張ったな。  心の中でマウアに語り掛け、悠真は目を細めた。  いよいよマウアの重賞初挑戦が始まるのだ。  そう思うと、体が熱くなる。  …マウア、頑張れ。  祈るように、心でマウアに叫ぶ。  マウアが自分の担当馬だった頃は、レースに向かわせるのに必死だった。  あの頃もきっと、マウアに関わるすべての人々が、こんなふうにマウアを見守っていたに違いない。  一頭の馬にたくさんの人々の想いが重なる。  悠真の願いは皆とは少し違うかもしれない。  そう。  たったひとつ。  …負けてもいい。負けても次がある。だからとにかく、無事に帰って来てくれ。
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