第1話 符号の条件

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 またあの夢をみた。  精通を迎えたばかりの頃、幾度となくみていたあの夢だ。 「嘘だろ…」  伊佐(いさ)疾風(はやて)は自分の下着を見下ろして、自己嫌悪に頭を抱えた。 「カッコ(わる)…」  疾風ら中央競馬のジョッキーは、金曜日の晩からレース開催地の調整ルームに缶詰になる。  土日はレース。平日も、夜明け前から馬の調教だ。  競馬学校を卒業してジョッキーになってからも、女とヤる時間が思うように取れない。  確かに溜まっていたし、元々レースの前後は昂る性質(たち)だ。  だからってこの歳で、よりによって調整ルームで夢精するか…? 「くそっ」  ぐっしょり濡れた下着もろとも、疾風は浴室に駆け込んだ。  みる夢は、毎回決まっている。  晴れた日に空の下で、体中をブラシで擦られる夢だ。  透き通るようなソプラノの声で、「気持ちいい?」と時折聞かれる。  気持ちいいに決まってる。  お前に触れられると、どこもかしこも気持ちいい。  尻の方で「わぁ、こんなにいっぱい」と呟く声が聞こえる。  振り返りたいが、あまり自由がきかない。  顔をロープで緩く固定されているせいだ。  足元にはフワフワした黒い毛の塊がたくさん落ちている。  時々カチャカチャと脚立を動かす音がして、声の主は上ったり下りたり忙しそうだ。  俺の体は大きいから、小さな体では大変だろう。 「よし、背中は終わったよ。最後にお腹をやるね。ちょっとくすぐったいけど我慢してね」  そこはマズい。  毎回、自分は歯を食いしばって耐えに耐えるのだ。  しかし夢はいつも同じ結末を辿る。 「わぁ、これおちんちん?おっきいなぁー!」  触るな、と言いたいのに自分の口から出るのはくぐもった悲鳴ばかりだ。  よせ。やめろ。  あ…!  強烈な快感を覚え、目が覚める。  下着と一緒に着ていた服を全て洗濯機に放り込み、持ち込んだ漫画雑誌を読み耽っていたら、「ハヤ」と声を掛けられた。  振り返ると、競馬学校時代の一年先輩、桜木(さくらぎ)広大(こうだい)が立っている。 「コウさん」 「よぉ。相変わらず絶好調だな。まぁ俺的には当然の結果だと思ってるけど…お前の戦績に先輩らもびっくりしてるぜ」 「けど実際のとこ、ゲートに入った時点でも走ってくれるかどうか分かんない馬も多いですしね。最後の直線までまったく手応えない馬もいるし…」  うーん、と疾風は首を捻った。 「うまく言えないんすけど、俺に出来ることは限られてて、たまたま勝ったレースのが断然多いんすよ」 「まぁ、多かれ少なかれ皆そんなもんだろ」 「結局最後は馬ですからね」 「お前さ、何か訊かれるたびに『走るのは馬ですから』って答えるだろ?あれ文字通りの意味なんだろうけど、世間じゃ格好つけてるとか白々しい謙遜やめろみたいに言われてるぞ」 「ふぅん。俺のことは別に誰にどう思われようと全然構いませんけど」 「そういや駿(しゅん)さんが、お前と一回呑みたいって言ってたぜ」 「一条(いちじょう)さんが?いや、俺まだ酒呑める歳じゃないんで」 「あれ?お前そろそろ誕生日じゃなかったか?」 「来週の土曜日ですけど…誕生日が来ても俺まだ未成年ですよ」 「そうか、次でやっと十九か」  その時、ピーという電子音が鳴った。 「あ、乾燥終わったな」  立ち上がった疾風を、桜木がギョッとした顔で見上げた。 「お前、また背ぇ伸びた?」  疾風はうんざりした顔で頷く。 「最悪っすよ。百七十五です。もう止まって欲しい…」 「体重管理、サイコーに辛そうだな」 「身長、貰ってくれません?」 「イラネ」  桜木にきっぱり断られ、疾風はわざとらしく肩を落とした。
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