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疾風が「騎手になりたい」と言ったとき、父は反対しなかった。
自分の病院を継げとも、医者になれとも言わなかった。
父は長い間、引退した競走馬の支援団体や牧場に寄付を続けており、疾風も子供の頃から引退馬と触れ合う機会は多かったが、父とは一度も競馬場に行ったことがない。
疾風が競馬を見に行きたいとせがむと、父は決まって「競馬場が苦手なんだ」と困った顔をした。
何故苦手なのか問うと、弱り切った顔をする。
それ以上訊けなくなり、疾風は競馬の話題を避けるようになった。
疾風が「騎手になりたい」などと言おうものなら父は猛反対するに違いない。
物別れになる覚悟で臨んだが、父は拍子抜けするほどあっさりと、疾風の希望を認めた。
父が競馬場へ足を運ばない本当の理由を知ったのは、寄宿制の競馬学校に進むことが決まり、自室で荷造りをしていた時だ。
ノックの音にどうぞと返すと、父が入って来た。
「疾風、ちょっといいか?」
「うん、いいけど…こんな時間に珍しいね。仕事忙しいんじゃないの?」
「仕事、ちょっと抜けてきたんだ」
これをみてほしい、と、父は古いフォトアルバムを疾風に手渡した。
「これは?」
色褪せた表紙に父の手書きの文字で「イサノウルフ」と書いてある。
そっとめくると、一頭の競走馬がダートのトラックを走っている写真が目に飛び込んできた。
めくってもめくっても、同じ競走馬ばかりだ。馬が鞍を付けている写真にはゼッケンが付いていて、馬番号と『イサノウルフ』の文字が入っている。大型で、パワフルな馬体をした、黒くて美しい馬だ。
「これ、中央の競走馬?」
「ああ」
「イサノ…ってもしかして冠名?父さんの馬だったの?」
「ああ、そうだ」
「父さんが馬主だったなんて、初耳だよ」
疾風は驚いた。
「元は親友の馬だったんだが…彼の病院の勤務医が医療事故を起こして裁判になってな。病院経営が危うくなって、この馬を引き取ってほしいと相談されたんだ。他の馬は売ったらしいが、この馬は俺に委ねたいと…」
「それで引き取ったんだね?この馬、活躍したの?」
「ああ。ダートの重賞を二回勝って、後一回勝ったら中央を引退させて、彼に返す約束をしてたんだが…」
「何かあったの?」
「三度目の挑戦をした重賞レースで、斜行した馬を避けようとした馬が寄せて来て、イサノウルフの進路がなくなってな。最内にいたから内側に避けて内ラチに激突して、人馬共そのままラチの向こうに落下して…」
「!!どうなったの?」
「ジョッキーは大怪我で、倒れたまま動かなかった。馬は『このレースに勝ったら元いた場所に帰れるから頑張れ』と言い聞かされていたらしい。必死にレースに戻ろうとして、内ラチに何度も体当たりして…」
「まさか…予後不良になったの…?」
父は悲痛な顔で頷いた。
「イサノウルフが死んだ同じ日に、母さんが産気付いてな。お前は超未熟児で産まれて来て…。命が危なかったらしい」
「うん。俺がNICUに入ってたって話、母さんから聞いたことがあるよ」
その日の晩、病院の控室でうたた寝をしていた父は、イサノウルフが小さな赤ん坊を背中に乗せて父の元に連れて来た夢をみたらしい。その直後に疾風は無事に産まれ、NICUに入ったと連絡がきて驚いたのだという。
イサノウルフを最後のレースに出さずに引退させておけばよかったと、父は後悔し続けている様子だった。
友人にも馬にもジョッキーにも申し訳なく、あれ以来、競馬場に足を踏み入れるのが辛くなったのだと話してくれた。
「あの夢は本当にみたんだ。だからイサノウルフがお前を助けてくれたんじゃないかと今でも半分信じてる。…荒唐無稽な話だろ?」
「不思議な話だけど、実際に父さんの身に起こったことなんだろ?父さんはそういう冗談言う人じゃないから、俺は信じるよ」
「ハヤ、前計量」
桜木に声を掛けられ、疾風はハッとして顔を上げた。
「どうした?お前がレース前にボケっとするなんて珍しいな」
「夢見がちょっと…」
「悪夢でもみたのか?」
「いや、最高に気持ちいい夢なんすけど…」
「おっ?どんな夢だ?教えろ!」
「絶対に嫌です」
「ふーん、わかったぞ。お姉ちゃんの出てくる夢だろ?はい、俺正解ー!」
「お姉ちゃんは出てきません」
今回みた夢で確信したが、あれはお姉ちゃんではなく子供の声だ。
待てよ。…てことは、子供相手に俺は…。
「うわぁ…」
罪悪感でいたたまれなくなり、疾風は自分の頭を掻きむしった。
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