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中央競馬ほど華やかではないかもしれないが、地方競馬を支えるファンの数は近年増え続けている。
インターネットの普及が、瀕死だった地方競馬の命を繋いだ一因といえるだろう。
地方競馬のレースを動画サイトで生中継し、金融機関の個人口座と馬券購入システムを連動することで、競馬ファンはいつでもどこにいても画面越しに地方競馬のレースを観戦し、馬券を購入、払い戻し出来るようになった。
悠真が子供の頃は、競馬場の存続自体が危ぶまれる程の経営難で、両親はいつもお金のことで喧嘩していた。
実直だが口下手な父、政明は、母が貰いたがっている言葉を口にすることが出来ない。火に油を注ぐような正論を吐いては母を怒らせていた。
だが、喧嘩をしているうちは、まだよかったのだ。
母がパートを掛け持ちして家計を支え、家事をこなし、子育てをして…どれだけ頑張っても、父は母に感謝を言葉で伝えられない。
母は日に日に言葉少なになり、ある日突然、黙って家を出て行った。
待てど暮らせど母は帰って来ない。
父は日雇いの仕事に出るようになり、悠真は祖父に教わりながら、今まで以上に厩舎の仕事を手伝った。
半月後、父に宛てた手紙と離婚届が送られてきて…それは母がくれた最後のチャンスだったのに…父は離婚届に判を押して、送り返した。
-もう二度とお母さんは帰って来ない。
悠真は目の前が真っ暗になった。
いつも穏やかで優しい祖父が、父を叱っている。
「梗子さんと、ちゃんと話し合わんか。売り言葉に買い言葉でどうする。お前は父親だろう?悠真のことも考えてやれ」
父は祖父の言葉を一蹴し、考えを変える気はないと断言した。
悠真はパジャマのままスニーカーをつっかけ、宿舎を飛び出した。
泣きながら厩舎を歩き回る。
お母さん、お母さん。
帰って来てよう。
お母さん…!
めちゃくちゃに走って転んだ悠真の頭上で、ブルル、と声がした。
昨日厩舎にやって来たばかりの二歳の新馬、アダツウォルフだ。
夜の闇に溶けるように真っ黒な馬体。黒い瞳は潤んで輝き、心配そうに悠真を見下ろしている。
「アダツ…ウォルフ…」
呼び掛けると、ヒヒン、ブルル、と応えるように鳴いた。
「お前はたったの二歳で、母さんとも離れ離れになって、ひとりでここへ来たんだな…」
悠真は立ち上がってウォルフを見上げ、一人と一頭は静かにみつめ合った。
パネルをよじ登り、悠真はウォルフの馬房の中に入り込んだ。
ウォルフは身をかがめ、悠真の頬に顔を近付ける。
まるで涙に濡れた頬を撫でようとするかのように。
悠真が「ありがとう」と言ってウォルフの鼻を撫でると、ウォルフは息をついて、大きな身体を横たえた。
悠真はつられたように寄り添って寝そべり、目を閉じた。フワリと体中の力が抜けていく。
その晩、悠真は母がいなくなってから初めて一度も夜中に目を覚ますことなく、朝まで熟睡した。
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