第1話 符号の条件

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 二日間のレース日程を終え、日曜の晩にトレセン(トレーニングセンター)内の独身寮へ戻ると疲れがどっと出る。  疾風は着ていた服をすべて脱ぎ捨て、下着一枚でベッドにダイブした。  土曜日は十九歳の誕生日だったのだが、バタバタしてすっかり忘れていた。  誕生日だからといって特に気負いはないのだが、レースに勝つたびに実況や競馬番組で「自ら十九歳の誕生日を祝う」と言われ続けていたらしい。先輩ジョッキー達がそれを真似て一日中揶揄(からか)ってくるのには参った。    本来ならレース明けの月曜日は休みなのだが、明日も二鞍騎乗予定がある。若手ジョッキー限定の地方交流競走が組まれているためだ。  開催地は、疾風の住む独身寮から車で十五分程の距離にある、地方競馬場だ。  予選ラウンドの二レースが組まれており、中央からは桜木と疾風を含めた四名、地方競馬からは地元と各地から八名、合計十二名の若手ジョッキーが出場する。  どの騎手がどの競走馬に乗るかは抽選で決定した。  疾風にとっては何もかもが、初めての経験だ。  先輩らには「さすがの伊佐疾風様も中央みたいにはいかねぇぞ」「しっかり地方の洗礼受けて来いよ」と今から茶化されまくっている。  ベッドに寝転がってうつらうつらし、ふと目を覚ますと、桜木からメッセージが届いていた。 『明日、昼過ぎにひと雨降るらしいぞ。馬場が読み辛ぇわ』  慌てて返信する。 『すいません。ちょっと気絶してました。情報ありがとうございます』 『お疲れお休み笑』 『お休みなさい笑』  桜木は今頃、明日のレースの分析に余念がないことだろう。心身共にタフな男だ。  『頭脳派』と称される中央競馬のトップジョッキー、一条(いちじょう)駿也(しゅんや)の大の信奉者である桜木は、彼に倣ってレース前に膨大なデータをかき集め、あらゆる分析をし尽くしてからレースに臨む。  マメを通り越して、執念とも思える作業を続ける桜木に、何でそんな大変なことをやり続けられるのか訊ねたことがある。 「そういや俺って昔からこうだわ。少年野球やってた頃から相手チームの分析ずっとしてたし。もうこれ、半分趣味なの。要するに、楽しいわけよ」  次の重賞レースの展開がどうなるか、身長百七十センチの一条を見上げ、身長百五十六センチの小柄な桜木が議論をふっかけている姿をよくみかける。  喋り出したら止まらない凸凹(でこぼこ)コンビをみるたびに、内心「あの二人マジ変態だな」と思うが、決して口には出さない。  一方の疾風は、自分の感覚のようなものを頼っている。  調教師の指示を仰ぎ、レース開始直前の返し馬で、馬と一緒にトラックを流して馬の特性を感じ取り、馬に走り方を教え、馬場の状態を確認する。  他の騎手についての傾向は掴んでいるが、全ての他馬の情報まではとても追えていない。これまでの戦績、持ちタイムや上がりのスピード、先行馬か差し馬か、所属厩舎はどこか、あとは追い切りのデータを確認して、気になる馬のレース映像をみるぐらいのものだ。  実のところ、疾風がもっとも手に入れたいものは経験だ。  トップクラスのジョッキー達の騎乗をみるにつけ、レースでは何より積み上げてきた経験がモノを言うのだと実感する。  経験値の圧倒的な差は、これから埋めていくしかない。 「ん?」  桜木から着信だ。 「あれ?もしもし、コウさん?どしたんすか?」 「おお、ハヤ、まだ起きてたか。明日、内田(うちだ)政兼(まさかね)厩舎の見学、オーケー出たぞ。ハヤも一鞍(ひとくら)乗るだろ?お前がいいなら一緒に見に行こうぜ」 「えっ?俺も行っていいんすか?行きます!」  内田政兼調教師。  ゴッドハンドを持つ男と言われている。  抽選の結果、桜木と疾風が彼の厩舎の馬に騎乗することが決まってから、「数々の伝説を残してきた地方競馬の天才調教師」だとベテランの先輩達から教わり、色んな逸話を聞かされた。  疾風もかなり興味をひかれているが、桜木はかなりどころかドハマりしたらしい。  内田政兼と彼が手掛けた往年の名馬たちの記録をあちこちから取り寄せて、年表のようなものまで作り始めていた。  明日の朝早く、桜木に叩き起こされる予感がする。  予感はきっと、現実になるだろう。 「…とっとと寝るか」  疾風は布団に潜り込んだ。
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