第1話 符号の条件

1/7
前へ
/101ページ
次へ

第1話 符号の条件

 蝉が鳴いている。  夏の強い日差しを避け、交野(かたの)が日陰になった馬房(ばぼう)の外に座り込んでいるのを悠真(ゆうま)はみつけた。  厩舎(きゅうしゃ)の中では大きなファンが回っているが、これだけの暑さだ。  馬たちは朝の調教の疲れと夏バテでぐったりしているのだろう。ここまで歩いてくる間、こちらに顔を覗かせている馬は一頭も見当たらなかった。  交野は手にしたタブレットを熱心に覗き込み、悠真が手を振るのにもまったく気付かない。  こんな時、交野は大抵中央競馬のレース中継を観ている。  中央競馬の騎手を目指したが夢叶わず、今は地方競馬の調教厩務員として働いている交野にとって、中央競馬の選ばれしジョッキー達は憧れて止まない存在なのだという。  悠真も交野と同じく、この小さな地方競馬で調教厩務員として働いている。  祖父は調教師、父は調教助手で、物心ついた頃から悠真の側にはいつも馬がいた。  子供の頃から数え切れないほどレースを観てきたが、悠真自身が騎手になろうと思ったことは一度もなかった。  高らかにファンファーレが鳴り響く競馬場。  スタンドに詰めかけた観衆。  全ての観客の注目と期待を集めながら、拍手と声援を受け、風のように、誰よりも早く馬を走らせる。  騎手(ジョッキー)は、競走馬(レースホース)と並び立つスターなのだ。  彼らを輝かせることに、悠真は何よりもやりがいを感じていた。  朝九時五十分発走の第一レースからどんな番狂わせが起こっているのか、交野が手にしたタブレットのスピーカーからはアナウンサーの絶叫が聞こえている。 『おおっと最内(さいうち)から一頭、馬群(ばぐん)を抜け出したーーー!速い!速い!一気に先頭のカミナリサンダーに迫る!ゼンセンマンだ!七番ゼンセンマン、差し切って、ゴールイン!!!鞍上(あんじょう)は、ルーキー伊佐(いさ)疾風(はやて)騎手…』 「この新人、また勝ちやがったー!」 「…交野くん」  悠真は苦笑しながら、人差し指をシィっと自分の唇に当てた。 「あっ、悠真さん。…うるさくしてすみません」  交野は声を潜めた。 「この新人、デビューして半年経たずに七十勝、連帯率四十パーセント越えですよ。いくら斤量(きんりょう)軽いとはいえ、特にいい馬ばっかに乗せてもらってる訳でもないし…。マジ、バケモンですよ」 「伊佐疾風?」  交野は頷いて、手にしたタブレットを悠真に向け、リプレイの映像を指差した。 「ほらみてください。最終コーナー曲がった時点でまだここにいたんですよ。しかも完全に囲まれてるし、こりゃ詰んだなと思ったら、一瞬前が空いた隙に最内から抜け出して、差し切りやがった」 「やるねぇ」  タブレットを覗く悠真の目が輝く。 「こういう、形勢不利な時ほど集中力が増して一瞬の判断が冴え渡るのって、どういう心理なんすかね」 「常に揺るがない自信があるんでしょ」 「自信かぁ」 「ところで、そろそろ飯に行かないか?」  悠真が昼飯に誘うと、交野は即座に頷いた。 「行きます!あー腹減った」 「うっちーさぁん、いたぁーー!ちょっとこれみてぇ」  小柄な女性がこちらに向かって手にした何かを振っている。  悠真と交野が厩務員として働く地方競馬で、唯一の現役女性ジョッキー、権田(ごんだ)早矢加(さやか)だ。  雑誌を掲げ、早矢加はこちらに向かって走って来た。 「ほらっみてっ、格好いいでしょ!伊佐疾風くん、女性誌の表紙になってるよっ」 「何だこりゃあ。どいつもこいつもビジュアルだけみて騒ぎやがって。それにひきかえ、ゴンちゃんはちゃーんと騎手の力量でみてるもんな?」  交野が問うと、早矢加は首を横に振った。 「ううん。そんなことない。顔も体も超好みだし」 「…結局、イケメンが正義か」 「俺は交野くんもイケメンだと思うぞ?」 「悠真さんっ!俺一生悠真さんについていきますからっ」 「そんなこと言ったって昼飯は奢らないからな」 「早矢加も行くー!」  寝ていたはずの牝馬(ひんば)が一頭、馬房から顔を覗かせていた。  悠真が合わせた両手を額にあてて「ごめん」と言うと、やれやれという表情で、馬は顔を引っ込めた。  この時刻で、気温は既に三十度を超えている。  今日も暑くなりそうだ。  -また夏が来たんだな…。  かつて、ここにアダツウォルフという名の青鹿毛の大型馬が在籍していた。  アダツウォルフが空へ旅立ったあの夏の日から、そろそろ十九年が経つ。  それなのに、悠真はここで彼と過ごしたたった二年の月日を、少しも忘れられない。
/101ページ

最初のコメントを投稿しよう!

44人が本棚に入れています
本棚に追加