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第1話 符号の条件
蝉が鳴いている。
夏の強い日差しを避け、交野が日陰になった馬房の外に座り込んでいるのを悠真はみつけた。
厩舎の中では大きなファンが回っているが、これだけの暑さだ。
馬たちは朝の調教の疲れと夏バテでぐったりしているのだろう。ここまで歩いてくる間、こちらに顔を覗かせている馬は一頭も見当たらなかった。
交野は手にしたタブレットを熱心に覗き込み、悠真が手を振るのにもまったく気付かない。
こんな時、交野は大抵中央競馬のレース中継を観ている。
中央競馬の騎手を目指したが夢叶わず、今は地方競馬の調教厩務員として働いている交野にとって、中央競馬の選ばれしジョッキー達は憧れて止まない存在なのだという。
悠真も交野と同じく、この小さな地方競馬で調教厩務員として働いている。
祖父は調教師、父は調教助手で、物心ついた頃から悠真の側にはいつも馬がいた。
子供の頃から数え切れないほどレースを観てきたが、悠真自身が騎手になろうと思ったことは一度もなかった。
高らかにファンファーレが鳴り響く競馬場。
スタンドに詰めかけた観衆。
全ての観客の注目と期待を集めながら、拍手と声援を受け、風のように、誰よりも早く馬を走らせる。
騎手は、競走馬と並び立つスターなのだ。
彼らを輝かせることに、悠真は何よりもやりがいを感じていた。
朝九時五十分発走の第一レースからどんな番狂わせが起こっているのか、交野が手にしたタブレットのスピーカーからはアナウンサーの絶叫が聞こえている。
『おおっと最内から一頭、馬群を抜け出したーーー!速い!速い!一気に先頭のカミナリサンダーに迫る!ゼンセンマンだ!七番ゼンセンマン、差し切って、ゴールイン!!!鞍上は、ルーキー伊佐疾風騎手…』
「この新人、また勝ちやがったー!」
「…交野くん」
悠真は苦笑しながら、人差し指をシィっと自分の唇に当てた。
「あっ、悠真さん。…うるさくしてすみません」
交野は声を潜めた。
「この新人、デビューして半年経たずに七十勝、連帯率四十パーセント越えですよ。いくら斤量軽いとはいえ、特にいい馬ばっかに乗せてもらってる訳でもないし…。マジ、バケモンですよ」
「伊佐疾風?」
交野は頷いて、手にしたタブレットを悠真に向け、リプレイの映像を指差した。
「ほらみてください。最終コーナー曲がった時点でまだここにいたんですよ。しかも完全に囲まれてるし、こりゃ詰んだなと思ったら、一瞬前が空いた隙に最内から抜け出して、差し切りやがった」
「やるねぇ」
タブレットを覗く悠真の目が輝く。
「こういう、形勢不利な時ほど集中力が増して一瞬の判断が冴え渡るのって、どういう心理なんすかね」
「常に揺るがない自信があるんでしょ」
「自信かぁ」
「ところで、そろそろ飯に行かないか?」
悠真が昼飯に誘うと、交野は即座に頷いた。
「行きます!あー腹減った」
「うっちーさぁん、いたぁーー!ちょっとこれみてぇ」
小柄な女性がこちらに向かって手にした何かを振っている。
悠真と交野が厩務員として働く地方競馬で、唯一の現役女性ジョッキー、権田早矢加だ。
雑誌を掲げ、早矢加はこちらに向かって走って来た。
「ほらっみてっ、格好いいでしょ!伊佐疾風くん、女性誌の表紙になってるよっ」
「何だこりゃあ。どいつもこいつもビジュアルだけみて騒ぎやがって。それにひきかえ、ゴンちゃんはちゃーんと騎手の力量でみてるもんな?」
交野が問うと、早矢加は首を横に振った。
「ううん。そんなことない。顔も体も超好みだし」
「…結局、イケメンが正義か」
「俺は交野くんもイケメンだと思うぞ?」
「悠真さんっ!俺一生悠真さんについていきますからっ」
「そんなこと言ったって昼飯は奢らないからな」
「早矢加も行くー!」
寝ていたはずの牝馬が一頭、馬房から顔を覗かせていた。
悠真が合わせた両手を額にあてて「ごめん」と言うと、やれやれという表情で、馬は顔を引っ込めた。
この時刻で、気温は既に三十度を超えている。
今日も暑くなりそうだ。
-また夏が来たんだな…。
かつて、ここにアダツウォルフという名の青鹿毛の大型馬が在籍していた。
アダツウォルフが空へ旅立ったあの夏の日から、そろそろ十九年が経つ。
それなのに、悠真はここで彼と過ごしたたった二年の月日を、少しも忘れられない。
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