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転生令嬢ユリアナ・ロゼットは婚約者に恋情を持てなかった。
35歳までは生きた記憶のあるユリアナは、お互い8歳の頃に婚約した彼は弟どころかこのくらいの年の子がいたっておかしくなかったよな、と息子のように思っていた。
15歳のきらめく美貌の少年になった彼が学園で身分の低い令嬢と逢引を重ねるのも、いやーうちの子モテるわ、あっ私婚約者だっけ、などとぼんやり見ていた。
20くらいになれば男として見られるだろう、そうであってほしい…。結婚するのだから息子のままでは無理だ。
しかしユリアナがもうすぐ16になるある日、呼び出された学園の東屋で彼との婚約破棄を言い渡された。
身分の低い令嬢と真実の愛で結ばれたので、私とは別れたいということだ。
ぶっちゃけやることをやって子ができてしまったのだ。
子供が子供を産んで育てられるのか!?と震えるばかりのピンクの髪の令嬢と申し訳なさそうにこちらを見てくる婚約者を怒鳴りつけてやりたかったが、まぁ産めば育てられるだろう。
婚約者は身分が高く資産家で乳母でも侍女でもいくらでも雇える。
ユリアナはゆるく波打つプラチナブロンドを揺らし、大きく頷いた。
「婚約を破棄しても我が家との婚約の条件は破棄しないこととわたくしへの慰謝料をお約束いただけるのならかまいません。お腹のお子様のために早々にカタをつけてくださいませ」
「すまない、ユリアナ」
「私が悪いのです!私がデビッド様を愛してしまったばかりに」
「ミアは悪くない!私が彼女に迫ったのだ、ユリアナ恨むなら私を」
「条件を!お約束いただけるなら!かまわないと言っているでしょう!さっさとあなたとわたくしと彼女の両親に土下座して回って手続きをしなさいデビッド!腹が目立ち始めるのはあっという間なのよ!寸劇をしている場合ではなくってよ!」
赤紫の瞳をきっとつりあげ立ち上がり、見た目ばかり立派なお子様を指差し怒鳴りつけると、ミアはわっと泣き崩れた。
「あなたも!母親になるのなら泣いてないでしっかりなさい!すぐにメソメソする娘などデビッドのお母様はお嫌いよ!使えぬとなれば子を取り上げわたくしを正室に据え育てよと命じるやもしれません。わたくしそのような貧乏くじはまっぴらです!あなたはただでさえ身分が低くデビッドの婚約者候補に名さえ上がらなかったのですよ。子ができればそんなことなし崩しに丸く収まるとでも思いましたか?そうは収まらないのが貴族ですよ!」
「うう、ひどいわ、私妊娠しているのに、そんなキツく…」
ミアが腹をさすりながら涙目で見上げてくる。
「デビッドのお母様はわたくしの10倍はキツくてよ!ねえデビッド」
「そ、そうだ、母上はユリアナの20倍はキツい。同じく気の強いユリアナを気に入っていた。しかし、俺は、ユリアナのそのキツいところが嫌なのだ!ミアは可憐なままで」
恋情はなくても可愛がってきたデビッドに嫌と言われ、ユリアナは胸が痛んだ。別にユリアナは気が強いわけではない。デビッドの幼い言動に口うるさく注意してしまっただけだ。子供なのだから幼くて当然だったのだが、つい…。
しかし気にせずデビッドを睨みつける。
「ではその子がお母様にキツいことを言われたらあなたが庇いなさいよデビッド。『母上の相手を頼む』などと逃げるのは許されなくてよ」
「いやそれは…ミア、母上はキツいがそれは期待をかけてくださるからで」
「デビッド様?!私を守ってくれないの?!」
ぎゃあぎゃあと喚く3人は学園の片隅の東屋といえど目立ってしまった。
ミアはやはり姑から守ってくれなさそうなデビッドとなんて結婚したくない!と言い始めたがもう遅い。
観客たちから話は広がり、ユリアナとデビッドの両親の耳にも届き、すったもんだの末にデビッドは家督を放棄してミアと結婚、ユリアナは隣国に嫁ぐことになった。
*
そしてやってきた婚家には、誰もいなかった。
大きいばかりでぼろぼろの屋敷は埃っぽく昼だというのに薄暗く、幽霊の一人や二人いても驚かない。いや驚くけども。
「えっわたくし、結婚するのよね?嫁がせるという名目の追放でしたの?」
ただ一人着いてきてくれた侍女のマギーを振り返ると、マギーの愛らしいそばかすフェイスは怒りに燃えて、それはもう恐ろしい形相であった。
「ひぇっ」
「お嬢様になんの瑕疵もないのはわかっているだろうに、この仕打ち…!どうりで使用人を連れていくのをしぶるわけです。ふふ、ふふふふ!許さない、あいつら全員許さない…!」
2つ年上のマギーは幼い頃からユリアナ付きで、学園にも侍女として着いてきてくれていた。年下なのに大人のようなユリアナを尊敬してくれていて、あの東屋での婚約破棄寸劇のすべてを見ていた彼女はもうずっと、めちゃくちゃに怒っていたのだ。
「マギー、落ち着いて」
「いいえ、いいえ、かくなる上は……」
マギーは赤いおさげを振り乱し、ユリアナの肩をがしりと掴んだ。
「アサガオを育てましょう、お嬢様」
低い声で囁かれた言葉にユリアナははしたなくもぽかんと口を開けてしまった。
表情と声とセリフが合っていない。
アサガオ?
「こんなこともあろうかと手に入れておいて正解でした。アサガオを育てましょう、そして咲かせましょう」
それでマギーの気が紛れるのならいいだろう。
ユリアナが頷くとマギーは鉢を探してきます!と屋敷を飛び出して行った。
マギーが用意した土を入れた植木鉢に、ユリアナは指先でぐっと穴を開け、種をころりころりと植える。
マギーが土をかけたところに、小さなじょうろで水をかけた。
前世の小学校の頃を思い出し、なんだかわくわくした。
「早く芽が出るといいわね」
「そうですねお嬢様」
マギーはまだぎらぎらしていた。
怒りに任せて掃除をしてくれたので、埃っぽくない部屋で眠れたのは助かった。
翌朝、庭に置いたアサガオの鉢を見に行くと、なんともう芽が出ていた。
「ふふ、さすがお嬢様です」
マギーはぎらぎらと芽を見て、朝食を支度しますと去っていった。
ユリアナはじょうろでたっぷり水をやった。
3日目、双葉が開いていた。
「早くないかしら!?」
驚きの声をあげるユリアナに、マギーはアサガオはこんなものですと言った。
転生してから植物を育てたことなどない。
こちらのアサガオは生育が早いものなのかもしれない。
またたっぷりと水をやった。
マギーが近くの村で食料を買いそろえてきてくれたのでこの日は素敵な食事だった。
4日目、まさかの本葉が出ていた。
いくらなんでも早くはないだろうか。
しかしマギーはこんなものですと言う。アサガオすごい。
たっぷりと水をやって立ち上がる。
今日はマギーが狩りに行くと言うのでユリアナは洗濯をすることにしたのだ。
マギーが狩ってきたうさぎをミートパイにしてくれるそうだ。楽しみだ。
5日目、本葉が増えていた。
6日目、つるが出てきたので支柱を立てる。
7日目、つるがくるりと支柱に絡んでいた。
8日目、わさわさと本葉が揺れて、にょきにょきとつるが伸びる様を見た。早回し映像じゃないのに。信じられない。
9日目、つるにひとつ、小さな蕾がついていた。
そして10日目。
まだあたりが薄暗いうちに揺り起こされた。
「お嬢様、起きてください。アサガオが咲きますよ」
マギーはお仕着せを着ているものの、赤い髪は流したままだ。
「わたくしまだ眠いわマギー」
再びまぶたを閉じたユリアナから、マギーは容赦なく毛布を剥ぎ取る。
「ひ、ひどいわ!」
「早く起きてください!アサガオが咲きますよ!」
マギーのアサガオへの情熱すごい。
ユリアナはネグリジェのままアサガオの鉢のある庭へと引っ張り出された。
夜明けが近い空の淡い紫が美しい。
朝靄の立ち込める荒れた庭はなんとも幻想的だった。
アサガオに目をやると、小さかった蕾が大きく膨らみ、今にも開こうと先端が綻んでいた。
「さぁお嬢様、もうすぐですよ」
マギーがやはりぎらぎらと目を見開いて蕾を見つめる。
あの色、赤い花が開くのかしら。
蕾のふちの色を見て想像する。ユリアナも開花をわくわくと待った。
待ったのはほんの少しだった。
するりと蕾は優雅にほどけ、ふわりと花開いていく。
ユリアナの知るアサガオより、ずいぶんと大きい。
「まぁ」
花びらはユリアナの瞳のような赤紫だった。
「マギー、素敵ね」
「ええ、本当に。さすがお嬢様です」
「ふふん、褒められるのも悪くない。さあ願いを言え」
「えっ?」
低く艶っぽい男の声にユリアナは驚き目をあげる。
赤紫の花をつけたアサガオの鉢のすぐ上に、黒い髪に褐色の肌、ユリアナとよく似た色合いの赤紫の瞳の男が浮いていたのだ。
ぴたりとした黒い服を着ているので、たくましい体をしていると一目でわかる。
若者には出せない熟した色気を纏っていた。
一言で言い表すとかっこいい。
「えっ……願いを……?」
「お嬢様、あいつらを全員地獄にぶち込んでもらいましょう!」
「人間を地獄にぶち込むなど容易いこと。娘、それでよいか?」
黒いセクシーガイがマギーに鷹揚に頷く。
ユリアナは慌てて声を上げた。
「お待ちください!あの、あなた様はどなたでしょう?マギーこれは一体どうしたことなの?」
「お嬢様、アサガオを育てましょうと言ったではないですか」
「うむ、このアサガオはそなたを気に入り、そなたのために我を選んだのだ。我ほど高貴なものを喚ぶとはなかなかないことだぞ」
「なんと、さすがはお嬢様です!」
根気よく話を聞いたところ、『アサガオを育てる』というのは悪魔を喚び出すという意味なのだそうだ。
悪魔の代理たるアサガオは契約者を選ぶため、植えたところでなかなか咲くものではないらしい。
なんだよそれ!
知らなかったよ!
生まれ変わって16年、ファンタジー要素は一切感じなかったのに、アサガオで悪魔とか唐突すぎるよ!
「わ、わたくしただお花を育てているつもりで……知りませんでしたわ」
「娘よ、アサガオはそなたに幸せになってほしいそうだ。なんでも願うがよいぞ」
「お嬢様、ほら地獄にぶち込んでやりましょう!悪魔様、実はですねお嬢様は……」
マギーがかくかくしかじかとユリアナの事情を語り始めた。
「ふむ、人間は悪魔よりひどいな。婚約がなくなっただけで放逐か」
「そうなのです、賢く美しいお嬢様は幸せになるべき方なのに、こんな廃屋に押し込めて野垂れ死ねと言わんばかりです」
「では両親と……元婚約者も地獄にぶち込んでおくか?」
「浮気相手もお願いします!」
「よし、では…」
「待って待って、お待ちになって!あの、本当にわたくしは誰も恨んでいないのです!婚約者は好きではなかったですし、顔も知らない相手と結婚するなんて嫌でしたし、このお屋敷に誰もいなくてわたくし、ほっとしたのです!マギーと2人で細々と暮らせたらそれで幸せと思っておりました!地獄にぶち込んでほしいなんて思ってもみませんでしたわ!」
ユリアナの言葉にマギーは感激し、ぎゅっとユリアナの細い体を抱きしめた。
狩りもこなす万能侍女マギーは力が強い。ユリアナはぐぇっと令嬢らしくない声を漏らした。
「お嬢様、お嬢様のお気持ちを察せられず、申し訳ありません……!このマギー、お嬢様と2人で幸せになります!」
「ま、マギー、ありが、ぐふっ」
「おい侍女、力を弱めよ、死んでしまうぞ。しかしそうか、では願いはないと申すか?我久しぶりの召喚で力を使うの楽しみだったのだが」
セクシーガイな悪魔様が拗ねたように黒髪をかき混ぜている。
一言で言い表すとめちゃくちゃかっこいい。
「あの、それでは、悪魔様もここで一緒に暮らしていただけませんか?」
上目遣いで精一杯かわいこぶって言ってみる。ちょうどマギーのおかげで涙ぐんでいたので、さらにかわいらしいのではないだろうか。
「一緒に?それが願いと申すか?」
「はい。アサガオもこのまま育てたいのです」
「ふむ、ふむ、それは悪くない。長く下界に降りていられる。ではここでそなたと暮らすことを願いとする。そなた、名は?」
マギーに手をほどいてもらい、スカート…ネグリジェだけど…をつまみ礼を取った。
「ユリアナと申します」
「ユリアナ、我は悪魔イグレシオである」
イグレシオが身を屈め、ユリアナの額にくちづけた。
するとイグレシオの体はカッと光り、次の瞬間にはなんとも禁欲的な執事服姿になっていた。
「執事ならここに住んでいても問題なかろう?」
ニヤッと笑う執事服のセクシーガイ……眼福でございます……!
ユリアナはぽっと頬を染めた。
すっかり朝日の登った庭で見つめ合う2人に気を利かせ、マギーはそっと離れ朝食の準備にとりかかった。
マギーが腕を振るった朝食のあと、イグレシオが指をぱちんと鳴らすとぼろぼろのお化け屋敷は瀟洒な姿を取り戻した。
100年ほど時間を巻き戻したのだ、とイグレシオはこともなげに言った。
3人で楽しく暮らすうち、ユリアナとイグレシオの心は近づき、2人は恋人同士になった。
ユリアナの寿命が尽きるまでイグレシオは彼女に寄り添い、アサガオは30年ものあいだ、イグレシオの花を咲かせ続けた。
*
「お嬢様は亡くなり、イグレシオ様はお帰りになり、お屋敷は寂しくなりましたね」
マギーはひとり、屋敷の片付けをしていた。
ユリアナのお気に入りのカップ。イグレシオが描いたユリアナのスケッチ。
大切なものたちを丁寧に梱包していく。
カップはユリアナへの贈り物だと、執事に扮した悪魔が恭しく差し出したものだった。
執事姿で買いに行ったのだと得意げに胸を張る悪魔に、ユリアナは頬を染めてにこにこと礼をしていた。
スケッチの中で微笑むのは、30代を過ぎ、しっとりと大人の色気を纏ったユリアナだ。
よく茂ったアサガオをかいがいしく世話するユリアナを、黒い悪魔が愛しさに目を細めてスケッチする姿はそれこそ絵画のようだった。
ユリアナは誰も恨んでいなかったが、マギーはユリアナを軽んじた者たちを許せなかった。
それはユリアナを愛したイグレシオも同様で、連中を何度か調べてくれた。
ユリアナの両親はあのあとすぐに失脚している。
マギーがアサガオの種を手に入れるために闇の組織に差し出したユリアナの父の不正のいくつかの証拠のせいだ。
デビッドとミアの結婚生活はすぐに破綻した。
家督を放棄し平民同様の暮らしをはじめた2人だが、何不自由なく生きてきたデビッドに使用人のない生活などできるはずもなかった。
ミアに家事をさせ仕事もせず座ったままのデビッドに、ミアは即愛想を尽かし出て行った。
娼館で客を取りながら子どもを産み育てたそうだ。
勝手に転落したことに溜飲をさげたが、地位と財産を失ったユリアナの両親もミアを失ったデビッドも、追放した先で幸せに暮らしているというユリアナを頼ろうとした。
しかし全員イグレシオが屋敷に近づく前に処理したおかげでユリアナは彼らに気付くことなく幸せに暮らした。
「お嬢様が幸せで、ようございました」
10983日目。
マギーはアサガオの枯れ落ちた実をもぎ、種を取る。
小さな封筒に入れ、ユリアナの宝物とともにクローゼットに仕舞い込んだ。
ユリアナが息を引き取ったのは、10日前だ。
少し熱っぽいユリアナに、マギーは薬草入りのワインを飲ませた。
イグレシオが体が冷えないようにと腕に抱いて眠ったが、翌朝ユリアナは目覚めなかった。
イグレシオは腕に抱いたまま、ユリアナを見下ろし愕然としていた。
「寝ているようにしか見えぬ。人間はこんなに簡単に……死んでしまうのか」
マギーも泣いて取り乱したが、ユリアナの瞳は開くことがなかった。
数日2人で泣き喚き、やっとのことで弔い……イグレシオは帰っていった。
そしてやっと、マギーはユリアナの思い出を振り返りながら、宝物たちを整理しているのだ。
大人びたユリアナは婚約者にも両親にも友人にさえ毅然としていた。
気を緩めるのはマギーの前だけだったのだと、明らかにイグレシオに恋をした、ふわりと微笑むユリアナを見て気づいた。
アサガオを咲かせなかったら、お嬢様の心は私だけのものだったのかもしれない。
そんな仄暗い考えが浮かんだこともあったけれど。
『アサガオを咲かせたら、愛する人ができて……わたくし、幸せよ。すべてマギーのおかげね、ありがとう!』
105日目にユリアナがイグレシオと結ばれた翌朝に向けられた、輝く笑顔がマギーの宝物だ。
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