第一話

2/2
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/58ページ
 母屋までは短距離走ができる程度のひらきがあって、裕也は勝手知ったる自分の家の庭とは言え闇夜に足を取られないように注意しつつ、それでも駆け足で渡り廊下を走って行った。  車は既に玄関前に到着しており、黒塗りの高級車から裕也の妻と子供らが降りてくるところだった。母屋にいた他の家人や、広大な屋敷にいたとしても何ら不思議はない数人の家政婦は玄関で出迎えの最中であり、ようやくたどり着いた裕也は少し首筋が汗ばんでいる。  しかし、趣はやはり普通の家族とは言えない。出迎える側も、帰ってきた妻たちも服装が現代人のそれとは到底思えない。誰も彼もが修験者の衣装を黒く染めたような、特殊な和装に身を包んでいる。白いワイシャツと灰色掛ったテーパードパンツを履いている裕也の方が、この場においては時代錯誤をしているようにさえ思われる。  そして車を降りてきた家族たちは、その装束と揃えたかのような鋭い顔つきをしていた。それは女子供とは言え、戦場を知る一介の兵士のようだ。 「ただいま、裕也さん」  妻である、神邊(みさお)は誰よりも先に裕也に向かって挨拶をした。朗らかなその笑顔は、彼女にようやく人間らしさを与える。 「おかえり。みんな大丈夫? ケガはしていない」 「ええ。平気よ」  二人はどこにでもいる夫婦ようにお互いを慈しんだ。けれども、それとは対照的に他の家族も果ては家政婦たちも冷ややかな目つきで二人を見ている。特に二人の子供たち四人からは嫌悪と言って差しつかないほどの雰囲気が出ていた。  すると長女の神邊(はるか)は、わざと父親である裕也にぶつかっては、跳ね除ける形で框に上がってきた。 「邪魔」  下の兄弟姉妹たちも、そんな姉に倣うかのように、とても実の父親に向かっては言わないであろう言葉を一言二言ぶつけて家の中へ入っていく。 「どけよ、疲れてんだから」 「・・・うん。ごめんね」  それでも裕也は何も言い返さない。より正しく言えば言い返せないでいた。裕也は妻にも子供たちにも、とある一つの落ち目を感じていたからだ。そんな裕也の態度は余計に子供たちをイラつかせる。  操は妻として母として至極真っ当な叱声を飛ばす。しかし、これはいつものことなので子供たちの耳に入ってはすぐに反対から抜けていく。 「あなたたち、お父さんになんて口をきくの」 「はいはい、ごめんなさーい」 「待ちなさい」 「操さん、悠たちも疲れてるだろうから」 「それとこれとは話が違います」  引き留める裕也の腕を振りほどくと、操は子供たちを追って家の奥へと入っていく。すると着替えや簡単な食事を用意するために、家政婦たちがそそくさと跡を追いかけるように消えていく。  玄関には裕也と、義理の母が二人きりで残っていた。  義母の俶子は能面のように眉一つ動かさずに裕也に言い放つ。 「情けない。実の子にもあのような態度を取られて」 「すみません・・・」 「・・・まったくあの子も、あなたのような男の何が気に入ったのか」  そうして去っていく義母の背中に向かって、裕也はもう一度「すみません」と呟いた。誰もいなくなった玄関で、裕也は石の如く固まって動けなくなっていた。十分、二十分と時間が経つと、やがて奥の部屋から子供たちの和気藹々とした声と食事の様子とが僅かに聞こえてきた。  もうどのくらい我が子と食卓を囲んでいないのだろうか。改めて数えるのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。  声を掛ければ、操だけは自分に付き合ってくれることくらいは分かっている。けれども裕也は、自分のつまらない自尊心と孤独感を満たすためだけに妻の時間を奪うようなことは死んでもしたくなかった。そんな暇があれば少しでも英気を養い、一分でも一秒でも日常にいる時間を作ってもらいたい。  このままここに突っ立っているのと、自分の仕事部屋に戻るのと。一体どちらが淋しくなるのだろうか。  裕也は溜まっている翻訳を片付けないと、と自分に言い聞かせた。そして家族のいる部屋の傍を通らぬように、わざと遠回りして蔵の隣の掘っ立て小屋に戻っていたのだった。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!