12.兆し

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. 「私の好きな人が、あなたのことを仕事ができて真面目な女性だと褒めちぎるものだから……。 今まで何度もきつい言い方をしてしまって、ごめんなさい」 苛々させてしまったのは、慣れない仕事に苦戦していた私にも原因があるから、それをいつまでも根に持つようなことはしない。 田辺部長もよりによって、中谷さんにそんなことを言う必要はないのに、意外と気が利いていない。 今は顔を合わす機会も減ってしまったけれど、今度どこかで見かけたら、そう叱咤したい衝動に駆られた。 「……いえ、気になさらないで下さい」 そう返事すると、彼女はまたも申し訳なさそうな表情をする。 しかし、そんな人間味が溢れる一面は、私にとっては親近感が湧くものだった。 信号が青に変わったので、急ぎ足で横断歩道を渡りきると、中谷さんは私の反応を窺うようにして尋ねてくる。 「……相手は誰かって、訊かないんですね」 「えっと……だって、それはプライベートなことですから」 例え相手が田辺部長ではなく、私の知らない誰かであっても、そうしたに違いない。 すると、彼女は苦笑いを浮かべながら、同意をしてくれた。 「私、櫻井さんのそういう真面目な性格、嫌いじゃないです」 その言葉が嬉しかったから……。 異動してから抱いていた苦手意識やわだかまりは水に流して、その控えめな笑顔を受け容れようと心に決めた。 この人はきっと、感情を表現するのが下手なだけで、決して悪い人ではないから。 .
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