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「ハルはまだ寝てていいよ。神崎さんには言っておくから。その格好じゃ、どのみち会社は無理だろ 」
クローゼットの前でネクタイを締めている佐伯君の言葉を、私はベッドの上でまだぼんやりとした頭で聞いていた。
そう言われてみれば、急いでいたとは言え、ほぼ部屋着のようなスウェットのワンピースに上着を羽織ってきただけだった。さすがにこんな格好では会社には行けないし、おまけに顔だってほとんどすっぴんだ。
それを思い出して、急に佐伯君の顔を見ているのが恥ずかしくなった。私は慌てて布団の上に顔を埋める。
「いや、今更だし 」
佐伯君のケラケラと人を小馬鹿にするような笑い声が降ってくる。なんだかそれが私を安心させる。
佐伯くんが昨日うちを訪ねてきたのは、私からの休みの連絡がなくてもしかしたら動けなくなっているのかもしれないと理沙に脅されたからだったらしい。それでも、私はまだ佐伯君の胸の内がよく分かっていなかった。
昨夜は目眩がなかなか治らず、しばらく微睡みの中を彷徨って、気が付いた時には私は佐伯君のベッドの中にいた。
当の本人はリビングのソファで眠ったらしく、さっきからポキポキと凝り固まった関節をこれ見よがしに鳴らしている。
今の私と佐伯君の間にはどんな状況が横たわっているのか。
もしかしたら、また振り出しに戻ってしまっているのかもしれない。
どことなく聞くのが怖くて、私の視線はずっと自分の手のひらの上で所在無げに佇んでいた。
「じゃ、これ 」
佐伯君がどこからともなく取り出して、私の視線の先に置いた。金属製の冷ややかな感触がなかなか手のひらに馴染まない。
これは?
視線で佐伯君に尋ねる。
「一応オートロックだから、外出ても勝手に鍵はかかるけど。それないと次入れないだろ? スペアだから持ってていいよ 」
「でも、私お昼頃には帰ろうと思うから、鍵まで預からなくても大丈夫だよ 」
「いや、預けるっていうわけじゃなくて。やっぱり、ないと不便かなって 」
私はよく意味が飲み込めずに、手のひらにちょこんと載った佐伯君の部屋のスペアキーと佐伯君の顔を交互にまじまじと見比べた。それでも結局答えは分からない。
「だから、それはハルが持ってていいよ 」
佐伯君は面倒臭そうにそう言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
一拍置いて手のひらの上にある鍵の意味を認識した私は、慌ててベッドから抜け出した。もしかしたらまた私は勘違いをしているのかもしれない。でも、どちらにしても佐伯君の口から聞きたかった。
私は、微妙に絡まる足に少し苦戦しながら、佐伯君のいるリビングに向かった。
「佐伯君、これってそういうことなの? でも、どういうことなのかよく分からないんだけど 」
私は自分でも何を言っているのかよく分からない。いろんな状況が一気に頭の中に飛来してきて軽くパニックを起こしていた。
佐伯君はソファに座ったまま、感情の薄い表情で私を見つめてきた。
佐伯君からおやつを貰っていたアビィも、中断されて少し不満げにこちらを見上げている。
「もう、どうでもいいよ。好きにしろ 」
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