真夏の影法師【上】

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「――――」 何とはなしに、隣に座っている同期の男を眺める。 大橋雄一郎。久次と同じ26歳。柔道部の顧問だ。 こんな時、彼だったら、 「柔道部は来年こそ全国を狙って頑張っているんです!土曜日も練習試合で忙しいですし、水曜日には外部コーチも来るので、無理です!」 と突っぱねられるだろうに。 ―――合唱部だって頑張ってるのにな。 自分のことを間違ってもクジなんて呼ばない、気の良い生徒たちの顔を思い浮かべる。 ―――ま、いっか。パート練習時間にちょっと覗けば。どうせみんな静かに絵を描いてるか、携帯を弄っているかどちらかだろうし。 久次はため息をつきながら立ち上がった。 夏休みが間近にせまり、どこか浮き足だった生徒たちで騒々しい廊下を歩く。 すれ違う女子生徒が手を振ってくる。 それを適当にあしらいながら、自嘲気味に笑う。 悩むなんて、自意識過剰もいいところだ。 彼らは「絵を描く場所」が欲しいのであって、「絵を描く時間」を確保したいのであって、「顧問」や「指導」を求めているのではない。 夏休みなんて毎日来る生徒の方が少ないのだろうし。 その中で「暇つぶし」以外の理由で来ているものなんてほんの一握り。 そしてその少数派の生徒達は、とっくに外部に指導者がいる。 自分は部活が始まる前に美術室のエアコンを入れて、時間が来たらエアコンを切ればいいだけだ。 それなら二学期の準備をしながらでも、合唱部の練習の合間にでもいくらでもできる。 専門教科は古文であるため、美術室にはとんと縁がない。 この学校に何年いるかはわからないが、こんな機会でもなければ、この教室に足を踏み入れることさえなかったのだと思うと、不思議な感じだ。 【美術室】 その文字を見つめ、久次はもう一度ため息をつくと、迷いを消し去るように大きく息を吸い込み、扉を開けた。 肺の奥まで油絵の具の香りが入ってきて、軽く眩暈を覚えた。
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