雨待ちレンズ

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* ――ー肝硬変(かんこうへん)の末期で、腹水が溜まっている状態です。意識状態が悪く、会話もままなりません。  10年前に出て行った親父の消息を告げる電話は、春の終わりにかかって来た。  教えられた病院の桜はもう葉桜となり、花びらがそよそよと空を泳いでいた。そのまま、花びらたちは近くの川へ流れて花筏(はないかだ)となる、うららかな陽気。けれど、そんな美しい風景は僕の怒りを鎮めてはくれなかった。  写真が好きで、いつもカメラを首に掛けていた父。カメラを教えてやると何度も言いながら、実行には移さず、休みの日にはいつも窓の向こうに気を取られていた。晴れの日も、風の日も、雨も、雪も、空の表情に夢中だった彼の被写体はいつも空だった。  気が弱く、誘われると断ることができない父はカメラと同じぐらい仕事にも打ち込んでいた。仕事と飲み会を混同しており、取引先との接待や、上司の誘い、部署の親睦のためと言われれば、家族のことなど忘れたかのように、休日出勤も繰り返していた。  僕が10歳のとき、父は仕事での努力が実らず不況の煽りを受けてリストラされた。仕事を辞めてから、付き合いで飲んでいたアルコールの量は増え、朝から飲むようになった。僕はその時のことをよく憶えている。冷蔵庫を開けるたびにずらっと並んだ缶を見るのが、嫌で嫌でたまらなかった。そして、酩酊(めいてい)した父の気が大きくなり、母や僕に大声を浴びせるようになったことも。  父がいなくなったのはそんな生活が1年ほど続いたときだ。写真は残さず、置き手紙もなく、借金だけを残して行方をくらませた。  母は彼が残した借金を返すため、身を粉にして働いた。無論、僕の将来も自然と狭まった。好きだったカメラを仕事にする未来は消え、高校を卒業後、地元の小さな電気屋に就職した。  怒りのまま病室の扉を開くと、記憶の父の姿はなく、手足は痩せ細り、腹だけカエルのように膨れた老人が居た。皮膚は黄疸色で、口には酸素マスクをし、鼻には栄養チューブが入っていた。とても僕の怒りをぶつけられる状況ではなかった。  父の状況は中途半端すぎた。  ゆるやかな死が一歩一歩近づいてくるような病状で、意識がはっきりしないため、周りからはただ寝ているようにしか見えない。寝顔など、眉毛と髭に白毛が混じり、実年齢よりかなり老けて見えたが、苦しさは感じていないようだった。ただ口から漏れる雑巾のような独特の匂いが鼻を刺激し、医療では取り返すことのできないものをひしひしと感じた。  重い空気を払拭したくて、気持ちを切り替えられる方法はないものかと考えていると、帰りのエレベーターで屋上庭園のポスターを目にした。  僕ならアネモネはもう少し上から撮影する、とついカメラのアングルを気にした瞬間、もう足はそこ向いていた。  そんな時、車椅子に乗った彼女の横顔を初めて見かけた。
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