TOM'S PARADISE

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腹のあたりに丸まっていた猫が突然布団から飛び出した。ベッドから床に着地する時にウルッと喉の奥で変な音を立てて、玄関に走っていく。尻尾で擦られた頬がくすぐったくて、俺は目を開けた。 「トム、いい子だね」 飼い主に小声で話しかけられ、トムはウルニャ、と応えている。鍵をかける音、鞄をそっと置く気配に続き、足音を立てないように飼い主のルークがベッドに近づいてきたが、俺と目が合うと、 「あーあ、起こしちゃった」 と大きな声を出した。 「トムが起こした。すっ飛んでいったから」 「またベッドに入ってたの?トム、ちょっとお」 抱き上げられたトムはだらんと脱力して、体が細長く伸びている。猫は長い。俺が同じように持ち上げても、後ろ脚を丸めてしまってこんな風には伸びないが。 「なんでえ?なんでキシさんとは寝るのさ」 横抱きにしてひとしきり構い倒してから、ルークは猫を解放して、俺の額にキスした。 「おはよ」 外気の埃っぽい匂いとデオドラントの残り香が混ざり合って鼻をつく。 「おはよう。仕事どうだった」 「ん、今日疲れた」 「手を洗ってきな」 ベッドに座ろうとしていた彼は、片方の眉を跳ね上げたが、黙ってバスルームに向かった。すぐにシャワーの水音が聞こえてくる。 彼には仕事が二つあり、早朝は病院の清掃に行く。一旦帰宅して仮眠をとった後、午後遅くカフェに出勤する。最初に泊まった夜に俺の仕事が日曜休みだとわかると、じゃ病院の仕事から戻るまでいて、と頼まれた。 「なぜ」 「帰ってきた時、誰かいるとダークな気分にならなくて済む。あと、昼にもう一回やれるの、よくない?」 「おっと。やれないと思うぞ、俺的には」 「なぜ」 真顔で言うので待つことにして、それ以来決まりごとになってしまった。 ルークは若く、彼といると自分から失われた若さの分量が自覚していたよりもずっと多いことに気づかされた。 眼鏡を探し、テーブルに置きっぱなしのコップの水を飲む。カーテンと窓を開けてベッドを整えようとすると、猫がぴょんとマットレスに飛び乗ってきた。ブランケットを剥がし、四つの枕を床に投げ落とす。トムは大きなベッドの真ん中に陣取り、首を捻じ曲げて自分の体を舐め始めた。 「君、どいて」 足側のシーツの皺を手のひらで伸ばしてマットレスにたくし込む。シーツを引っ張られてバランスが危うくなった猫は、ぱたんと可愛らしく横たわった。 「邪魔だよ」 日本語で文句を言うと、ころっと仰向けになり、白い腹を見せて大きな伸びをした。前足と後ろ足に力が入って、ぷるぷる震えている。猫、ほんとに長い。 飼い主の発音を真似て、トム、と呼んだら、ウグル、と喉を鳴らして尻尾をしゅっしゅっと左右に振った。 どかすのは諦めて、シーツの上方を形だけ整えた。枕をセットし、ブランケットはドレープを寄せて足元に広げておく。 飼い主が戻って冷蔵庫を開けた途端、トムはまた変な声を出してすっ飛んでいった。裸のルークに餌を用意してもらう間、ウニャウニャ言いながら足にまとわりつき、器が置かれるとがつがつ食べ始める。急に静かになった部屋に、ルークの控えめなため息が響いた。 清掃とカフェ店員の仕事を掛け持ちしてもここの家賃は払えないはずで、彼氏と借りた、と言っていたが、事情は聞いていなかった。 「お茶でも淹れるから、ちょっと座れば?」 「お茶もいいね。でもあとにする」 口飲みしたジュースの大きなボトルを冷蔵庫にしまい、ルークはベッドに座った俺のところまでゆっくり歩いてきた。 膝の間に立った裸の腰を掴むと、薄い皮膚はひんやりして滑らかに手に吸いついた。平たくて真っ白な腹に唇を押しつけ、少しずつ上に滑らせながら、マッサージのつもりで背中の骨格を両手で辿っていると、 「舐めて、そこ」 と小さな声がする。 「ここ?ここはまだ順番来てません。我慢してくださいね」 「え、あとどれぐらい待ちますか?じゃねんだわ、はは、俺、結構疲れてるな」 「順番としては、まず窓を閉めるよ」 立ち上がろうとした俺の頬に手を置いて、 「あんたの、そのおかしなとこが好きだよ」 と彼は笑った。 「ベッドメイキングがめっちゃ上手なところも、他も全部、好き」 ルークの唇はオレンジの甘い味がした。あいつを思い出すのは、罰を受けるのに似ているといつも思うが、こんなに痛いのは久しぶりだった。 終わると、どういうわけか早速トムがベッドに飛び乗ってくる。仰向けのルークの頭すれすれを通り、俺の胸の上を堂々と踏み越えて、ルークと逆の腕にもたれて横になる。 「これぞ真のミステリーだなあ」 ルークが静かに言った。 「俺、二年飼っててトムと一緒に寝たことないもん」 「大げさに言ってるんだろ」 「全然マジだって。普段、人間がベッドにいたら絶対上がってこないの。あんたが来た時だけ」 大あくびをして、ルークは俺の肩に頭を乗せた。 「もうだめ、寝そう」 「おやすみ。俺は適当に帰るから」 「まだ、いるよね」 「うん」 彼はすぐに寝息を立て始め、俺はそっと腕を動かして猫を抱え込んだ。暖かい毛のかたまりは体勢を整えて脇の下に収まり、丸い大きな目で俺を見た。 「君、俺が好きなの?」 日本語で囁きかけると、尻尾がぱたぱた揺れる。時折現れるあいつの影は、いつも痛みと区別がつかないくらい激しい恋情を呼び起こした。手がとどく場所にいた頃には、思いもつかなかったのに。それとも、俺は気づかないふりをしていただけなのか。 ダークな気分ってのはこれのことだな。 鼻先にキスをしたら、トムはウル、と満足そうに唸った。
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