もあもあ病

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「ただいまー!」 帰宅しても妻からの返事はない。 微かに水が流れる音がする。 「またか!」 俺は鞄を放り投げ、急いで浴室へ。 生温い空気と生温い靄の中に漂う赤い水。 人形みたいに座る蒼白い身体。 その手首は、赤い水の中にだらしなく垂れる。 生気を奪われるかの様な顔色。 「望!」 赤いラインを描く腕を戻し、抱きしめて確認する体温。良かった、まだあったかい。 俺は急いで望を抱え、救急車を呼んだ。 「もあもあ病?」 「最近よくいるんです」 白衣を着た先生は、溜め息混じりの声で語り出す。 「五月病っていうのは、よく聞きますよね?ふわふわしてやる気が出なくなる病なんですが、その延長線上から来るのが六月病なんです」 「六月病?」 「はい。酷くなると生きているのがしんどくなって、自ら死を望むようになり、自殺を繰り返したりしてしまうんです」 「妻がその、もあもあ病だと?」 「はい、自殺を繰り返しているんですよね?」 「はい……」 ベッドで眠っている妻の顔を見つめる。大丈夫だと思っていたが、最近は毎日、自殺を図ろうとしている。朝出かける前に「大丈夫よ」と言っていても、この状況だ。 妻はその〝もあもあ病〟なのか? 帰宅した妻をベッドに寝かせると、少しだけ開いた薄い唇から何か湯気みたいのが出ているのが見える。それは白くて、もあもあして天井へ登っていくと、ふわっと消えていった。 俺は目を擦り、もう一度天井へ目をやる。 「何だろう?疲れているのかな?」 それから妻は自殺はしなくなり、寝ている事が多くなった。 「あなた……おかえり」 その吐息から、白い湯気が立ち登る。最近ずっと、もあもあが見える。それは天井に吸い込まれると、すぐに溶けて消える。 「何だろう……」    また別の日のこと。 「ただいま……」 「おかえり……なさい」 もあもあは知らないうちに、部屋中を埋め尽くすぐらいに漂っては、天井にゆっくりゆっくり登っては消えていく。 生温い空気が流れ、それを肌に感じると、背筋が凍るほどの怖気をなぜか感じる。 ベッドに寝転んでいる妻の顔は、日に日に痩せこけていく気がする。水以外何にも食べない。何にも食べたくないと言うのだ。 俺は艶を失った髪を手櫛みたいになぞり、細くなった手を握りしめ、虚ろな目を見つめた。   「明日、病院に行こうか?」 「大丈夫よ……」   その日の夜。 すやすや眠る妻の顔を見た後、天井に目を向けると壁面が揺らめいた気がした。 そして、ズズズズズ……と何かが這いずるような音が響く。 まさか、ネズミ? ゴキブリ? 異様な気配を感じながらも、俺はゆっくりと瞼を閉じた。 「ただいま……」 この日はその白いもあもあが、玄関を埋め尽くすまで占領していた。 「望!」 その靄を、手のひらで払い除けながら、廊下を抜けて妻が待つ寝室へ向かう。白煙が体に張り付く様に纏わりつく。 寝室の前まで来るとドアの隙間から漏れるそれは、四方八方に向けて広がっては逃げる。 早くなる鼓動を耳に感じながら、ドアノブに手を掛ける。 「望!!」 一気に襲い掛かるもあもあを掻き分け、ベッドに向かい手を伸ばすと棒みたいなものを掴んだ。それはよく見ると、細く痩せこけた妻の腕だった。目を凝らしながら、顔がある方へ目線を向けると、周りの靄が一斉に天井へ立ち上がった。 ゴオオオオ! 次の瞬間 天井の一部の壁が一気に落下する。 ドオオオン! 舞い上がった砂埃の中に、黒い何かが浮かび上がる。 必死に目を凝らす。 そこにいたのは巨大なダンゴムシ。 細長い触覚。 大きな口から零れ出す液体。 鎧みたいな骨格は重なるように蠢く。 止まる事を知らない数万本の足。 「うわああああああーー!!!」 どうして、こんな所に巨大なダンゴムシが?! そのダンゴムシの口からは、白い靄がゆらゆら出ている。 もしかして…… もあもあを食べていた? 抱きしめた妻の体はミイラみたいで、虫の息がある程度まで弱り果てている。 「おい!望!大丈夫か?」 『その女から放出された、もあもあは美味かったなぁ。絶望に満ち溢れていたから美味だった』 そのダンゴムシから漏れた声に部屋が揺れる。 「お前、あの靄を食べていたのか?」 『ああ。「死にたい」という想いが強かったから、わしはすぐに大きくなる事が出来たんだ』 絶え間なく動く足が波打ち、口から流れ出た靄が頬を静かに掠める。 『さぁ、わしはもっと大きくなりたいんだ。その女の最後のもあもあをくれ!』 「最後?そんな事をしたら、妻が死んでしまうじゃないか!!」 息をするだけの体を強く抱きしめる。 『そんなん知らん!わしは大きくなって、街に繰り出して、もあもあをもっと食べに行く!』 こんなバケモノを世に出してしまったら、この日本は終わってしまう。 人の苦しみのもあもあがたくさん漂っている世の中だ。たくさんの人々が死んでしまうに違いない。 「妻だけはどうか助けてほしい。俺はどうなってもいい!だから、俺の命を持っていってくれ!!!」 俺は泣きながらその体をまた抱きしめる。 俺のせいだ。 望がこんな事になってしまったのは。 仕事が忙しくても、ちゃんと側にいてあげれば良かったんだ。 もっと近くで支えてあげれば良かったんだ。 『ぐわぁぁ!それ以上何も言うな!』 ダンゴムシの体がズズズと小さくなったみたいに見えた。 「妻を助けてくれ!俺は死んでもいい!」 『やめ、ろ』 また小さくなる。 「妻を返してくれ!俺の命を食べてくれ!」 ズズズズズズ…… 『や、め、ろ……』 分かったぞ。このバケモノは人間の醜い感情を吸って大きくなるんだ。 だから、純粋な感情が嫌いなんだ。 それを吸うと体が小さくなる。 さぁ、トドメだ。 俺は愛しい髪を撫でると、痩せこけた頬に口付けをし、叫んだ。 「望を愛してる。俺を殺してくれ!!!」 ズズズズズズズズズ…… 眩い光が部屋を包み込むと、 抱えた体からドクドクと強い心音と、 あたたかな体温、柔らかな感触。 生命の息吹を感じる。 目の前にバケモノはいない。 「あれ?あなた?どうしたの?」 血色を取り戻した妻の顔を見つめる。 「ごめん」 「何?どうしたの?」 「放ったらかしにして悪かった」 「放ったらかし?」 俺は取り戻したぬくもりを優しく抱き寄せる。 崩れ落ちた瓦礫に照りつける日差しがキラキラ煌めく。 「これからもずっと一緒に居よう」 もあもあは、もういない。 end
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