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家に女性を上げたのは初めてだった。
一時的に倒れた彼女だったが、ものの数秒で意識を戻した。
ただ一人暮らしだと言うし、とても一人で帰せる状態ではなかった為、具合が回復するまで招くことにした。
無論、彼女の同意を得た上である。
「どうぞ」
ソファに座らせ、気持ちを落ち着かせようとアイスコーヒーを淹れた。
いつものカフェで買った豆なので気に入ると思った。
「あの場にいて下さって本当に助かりました…」
芳しいコーヒーの香りに落ち着いたのか、暫くして彼女は改めて深々と頭を下げた。
「あの人、夜と雨の日は出てこないんです」
「あの人って、あの男ですか?」
確認のため掛けた問いに、彼女は小さく頷いた。
それを皮切りに淡々と聞かされた彼女の事情に、私は言葉を失うことになった。
発端は今から五年程前―――。
当時の彼女は近くの美大で常勤講師をしていたそうで、職場関係も良好で学生達からも好かれ、充実した毎日だったらしい。
しかし、臨時講師としてやってきたあの男が着任してまもなく彼女の日常は破壊された。
仕事に関する説明をしただけだというのに何を勘違いしたのか、男は彼女が己に気があると思い込み、周囲に交際していると吹聴。
当時の彼女には婚約者がおり、周囲もそれを知っていて、いくら説明しても理解しない男に痺れを切らした彼女は大学上層部に相談。
大学側も無断欠勤を度々起こす男に辟易していたらしく、その点も重く見て、一年も立たずに解雇を言い渡したが、それが男を逆上させた。
男はSNS上に彼女と特定できる嘘の醜聞を書き連ね、事情を知らない学生の間でそれが忽ち拡散された。
彼女は大学と共に火消しに回ったが、一度広まった悪い噂は彼女の評価を落とし、学生等にこれ以上の混乱を防ぐためとして自主退職に追い込まれた。
事実上の切り捨てである。
どうにか転職を考えた彼女だったが、風評はその後もしばらく続き、その間も男は彼女への付き纏いを継続。
警察に相談するもその時は物的証拠がないと逮捕には至らず、段々と心を病み始めた彼女に婚約者は耐えきれず別れを告げた。
そうして月日が流れた昨年、弁護士や元職場の同僚の根気強い協力の甲斐あって、男は名誉毀損の他いくつかの罪で接近禁止命令などの実刑を食らったが――――。
「今でも精神科には定期的に通わなければなりません。禁止令が出ているとは言え、遠巻きに監視されているのは知っていました。ですが現行犯でないと咎められないとかで…」
「そんな…!」
「法律の穴ってやつです。…ただどういう訳か日没後と雨の時は出て来なくて。講師時代、あの男が欠勤するのも決まって雨か雨予報の日でした」
その告白で、彼女が《夕立さん》になった理由を悟った。
雨が好きな訳でも、お洒落な傘が好きな訳でもなかった。
「私、雨の中なら安全なんです。今じゃ陽のある内は怖くなってしまって…」
そう語りながらスケッチブックを抱きしめ、彼女は涙を零した。
その後、彼女は尚も話を続けてくれた。
社会復帰のため雨の日は極力、外に出るよう言われていること。
街中で男に見つからないよう時間を考え、同じ服装はしないようにしていたこと。
スケッチブックは治療の一環であること―――。
そして、私との些細なお喋りが、どんなに傷付いた心の癒やしだったことか―――…、彼女は涙ながらに語ってくれた。
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