見えないお友だち

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「うちの犬がね、何も無い空間を凝視したり、誰もいない場所に向かって吠え続けてるの」 「それってあれじゃないの? 目には見えない……」 「ねー、動物は敏感だしね。あと、赤ん坊とか、小さい子供も。子供には『見える』んだって――」  ふと町で聞いたそんな噂話を思い出していると、玄関のドアが風と共にバタンと開いた。 「チカ? 帰ってきたら『ただいま』くらい言いなさい」  恐る恐る玄関に向かって呼びかける。 「ただいま」  チカだ。小さな声が返ってきて、ほっと息を吐き出す。 「ケーキ焼いたから、手を洗ってから食べてね」  背中越しに言うと、チカはランドセルを床に置いた。 「お友達の分もある?」  横を指さすチカ。真っ黒な瞳。チカが指さす方向には誰もいない。 「そうね」  平然としているふりをして、ケーキをチカに渡す。 「でも一個だと大きいから、“お友達”には半分こして分けてあげてね」 「うん。分かった」  チカはケーキを一つ、お皿とフォークを二つづつ持って、自分の部屋がある二階の階段を上がっていった。   “子供には「見える」んだって。大人には見えない、その存在が――”  最近、チカはこんな風に「みえないお友達」を連れてくることが増えた。  誰もいない空間をじっと見つめたり、ひそひそ話をしたり、小さな笑い声を上げたり。  チカを精神科医の所へ連れて行ったこともある。  だけど医者は「心配いりませんよ」と言って笑うだけだった。 「それは、イマジナリ―フレンドと言うんです。イマジナリーフレンドとは、言うならば、空想の中のお友達のことです。人間関係に不慣れな幼い子供に起こりやすい現象ですよ。心配しなくても、年齢が上がるにつれ、この現象はなくなっていくでしょう」  娘は今九歳。内気で友達もなかなかできず、空想の中にこもりがちだ。  だから他の子供よりもこういった妄想に囚われやすいのだろうか。  そう思って自分を納得させる。  イマジナリ―フレンド。誰にでもあること。そうなのかもしれない。でも……。  何だか不気味でしょうがない。  ザワザワと腕を這うように湧き上がるこの嫌な予感は何だろうか。  最近のチカの妄想は昔よりもずっとリアルになってきている。  昔はチカが連れてくる「お友達」は妖精さんやお姫様みたいな、可愛らしいものだった。  でも最近連れてくる「お友達」は、どうもそれとは違うように感じる。上手くは説明できないけれど。  ぴし、と家鳴りがして、思わず振り返る。  嫌だ。新築の家なのに、壁でも割れたのだろうか。  嫌な予感を振り払うように階段をかけ上がり子供部屋に向かう。  ドアを開けると、テーブルの上に、空になった二つの皿と二つのフォーク、二つのグラスが見えた。  まるで、それまで本当にお友達と二人で遊んでいたかのようだ。 「チカ?」  子供の姿が見えないと探すと、チカはベッドの中にいた。  最近チカは、寝るときにベッドの端っこに寄って寝る。真ん中に寝るとお友達の邪魔になるからだそうだ。  ここに、見えないお友達が寝ているとでもいうの? バカバカしい。  私は足元に丸まっているタオルケットをチカの体にかけてやる。  その時思わず私はチカのいない、ぽっかりと開いたベッドのスペースを触ってしまっ た。 「――ヒッ」  冷蔵庫の中みたいにひんやりしていて、じめっと湿ったシーツ。なぜだか酷く嫌な感じがした。 「『あの子』はお出かけしてるの」  チカが不意に目を覚ました。私は慌てて手を引っこめる。 「だからそこにはいないよ」 「そ、そう」  『あの子』が居なくてよかった。  そんな風に思う自分に驚く。『あの子』なんて。いるはずもないのに。 「『あの子』って……どういう子なの?」  ふと聞いてみる。  チカは私の瞳の奥を覗き込みながら、無表情にこう言った。 「よく分かんない。真っ黒なの」 「え?」  思わず聞き返す。 「あのね、真っ黒でね、闇の中に住んでるの」  ガタガタと、窓がなった。  私は誰もいない窓に視線をやった。 「『あの子』はお出かけしてるって言ったわね? 窓から出て行ったの?」 「うん、そう」  チカは眠たげな目をこすった。 「あの子はお腹がすいてるの。ご飯を食べに、お外に行ってるんだよ」  チカは、ギュッと抱きしめた枕に顔をうずめる。 「悪い子をね、食べちゃうの」 「えっ?」  くすくすと、チカの無邪気な笑い声が部屋に響く。  体中に髪の毛がまとわりつくような、そんな嫌な感覚が、私を襲った。 「……そう。じゃあ、良い子にしてないとね」  私はそう言って部屋を出た。  ただのイマジナリーフレンドだ。気にすることは無い。よくあることなのだ。  大人になれば自然と消える、可愛い妄想。ただの妄想なのだ。  居もしない「お友達」に怯えるなんてバカバカしい。  そうは思いつつも、私はふいにあのじめっとした冷たいシーツの感触を思い出し、何度も何度も手を洗った。    気が付くと、風が随分と強くなってきた。窓の外を見ると、空が見る見るうちに曇っていく。遠くで、雷の鳴る音がした。嫌な予感。これは、嵐になる。  私はチカに向かって叫んだ。 「雨が降ってくるから部屋の窓を閉めなさい!」  雨あしは一気に強くなる。ザーという暴風雨の音に世界が支配される。  空を割るように、何度も鳴り響く雷。私はすべての部屋の窓を閉め終えると、ほっと溜息をついた。  通り雨だ。この時期にはよくある。台風のやうな暴風雨が吹き荒れているが、三十分もすれば収まるだろう。  私が暗い空を眺めていると、雨音が支配する暗い廊下に、ふいにインターホンが鳴り響いた。  玄関に行ってみると、そこにいたのは、近所に住むママ友のユリだった。  彼女は青白い顔をして薄明りの中に立っていた。全身びしょ濡れだ。 「ちょっと、ずぶぬれじゃないの! どうしたの? 今タオル持ってくるから……」  そう言ってタオルを持ってこようとした私に、ユリは弱弱しい口調で言った。 「ねえ、うちのケンちゃん、ここに来なかった?」 「ケンちゃん……? いいえ?」  ケンちゃんは彼女の息子で、チカと同じ年だ。 「どうしたの? まさか、いなくなったの?」 ユリは涙ながらに訴える。 「朝家を出たきり帰ってこないのよ。お昼時にも帰ってこないし。こんなこと、今まで無かった。もし事故や誘拐にでもあっていたら……」 崩れ落ちるユリ。私はユリの体を支えた。 「大丈夫よ。きっとどこかで迷子になっているだけよ。警察に連絡はした?」  すると二階からチカが下りて来た。 「だぁれ?」 「チカちゃん! うちのケンちゃんを見なかった?」  ユリが悲痛な声を上げる。  チカは、まるでそんなユリをあざ笑うかのようにこう言った。 「ケンちゃんなら死んだよ」 「え?」  チカは再度言った。 「ケンちゃんは食べられちゃったの」  私は耳を疑った。まさか我が子から、こんな残酷な言葉が出てくるとは。 「ケンちゃんはね、『あの子』が食べたの。チカをからかったり、おもちゃとか本を隠したり、いじわるする悪い子だから、食べられちゃったの」  振り止まぬ雨。ゴロゴロと雷の音が鳴り響く。雷光がチカの顔を照らし、深い影を作る。その口元はニヤリと笑っているように見えた。  気が付くと、私はチカの頬をビンタしていた。  ぱん。  乾いた音が玄関にこだまする。 「そんなことを言うのはやめなさい!」  雨は止むことなく、ポツポツと屋根を足音の様に叩いている。 「いいかげんにしてよ! 見えないお友達なんて、そんなのいないのよ! いい加減、現実を見て!」  今まで我慢していたものを吐き出すように叫ぶ。  チカの目に、涙が溢れる。そして、堰を切ったように、わんわんと泣き出した。  泣きたいのは、こっちの方だった。  チカは金切声で叫ぶ。 「あの子は居るんだよ! チカをいじめる悪い子をやっつけてくれたの! なのに、なんでそんなこと言うの? ママなんか嫌い! 死んじゃえ!」  チカは階段を駆け上がると、自分の部屋のドアをバタンと力任せに閉めた。  少し心が痛んだが、悪いのはチカだ。  すぐにユリのほうに向きなおった。  本当につらいのはユリなのだ。まずはケンちゃんを探すのが先決。 「ユリ、気にしないで。一緒にケンくんを探しに行きましょう」  私はレインコートを着て傘を持ち、ユリと共に外を探し始めた。  しばらく外を探していると、河川敷沿いにパトカーと救急車が止まっているのが見えた。  私はパトカーの音を聞きつけてやってきた野次馬の一人に声をかけた。 「どうしたんですか?」 「川で男の子が流されて死んだんですって!」  彼女が全部言い切る前に、ユリは担架に乗せられ、ビニールシートのかかっているその子供の死体の方へと急いで駆けて行った。  ユリがビニールシートの中の顔を確認し、泣き崩れる。その死体は、ケンちゃんのものだった。  ケンちゃんの死体には、右の腕と、左の脚が無かった。  そこにはただ、何か強い力で引きちぎられたかのような跡があるだけだった。 「ただいま」  私は身も心も疲れ果てながら帰宅した。 「ママ!」  帰るなりチカがいきなり抱きついてくる。 「ママごめんね!」 「チカ……」  私はチカの体を抱きしめた。その体は、外に出たわけでもないのにじっとりと湿っている。  チカの泣き顔を見て、私はようやく安心した。  よかった、ようやくあのバカげた妄想から目が覚めたんだ。  しかし、チカはそんな私に向かってこう言ったのだった。 「『あの子』が怒ってるの! すごく怒って、ママのことを食べちゃうって言ってる。チカがママのことを話したから……ごめんね、ママごめんね! だからほら、ママもあの子に謝って。そうすれば、きっと許してもらえる。でないと――」  そう叫ぶチカの声が止まる。  何かを凝視し、息を止めている。  嫌な予感がした。背中に、悪寒が走る。  居る。  何かが。  私は、恐る恐るチカの視線を負った。  チカの視線は、私の背後に向けられていた。  チカの真っ黒な瞳の中に映る  ゆっくりと振り返ると、そこには  ただただ果てしない  闇が  蠢いていた。 完。
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