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その日は、職場の暑気払いという感じの、なんということもない飲み会だった。
普段は鬱陶しくて出ないこういう集まりも、その日は学校が夏休みに入る開放感に背中を押されて参加した。
ぼくの隣には、滝島先生がいた。
担当は化学。
華奢で、男性にしては小柄だろうか。イケメンという表現より、端正で美しいという言い方が似つかわしい容姿。色素が薄いというのだろうか。白い肌に、明るい栗色の髪。その淡い色合いが繊細な雰囲気を一層強調している。
いつも穏やかな人だが、どこかにひんやりとした鋭さを隠し持った気配があり、それでいてなぜか他人の心を引きつける。生徒たちや周囲からも、本人のいない場所であれこれと騒がれる、そんな遠巻きな人気を得ているタイプだ。
「滝島先生、お酒はよく飲まれるんですか? あまりそういうイメージじゃないですけど」
その近寄りがたい空気もあり、普段それほど接点を持つこともなかった彼に、ぼくは当たり障りのない話題を向ける。
「……ええ。酒はそれほど強いわけじゃないし、飲み会もどっちかと言えば苦手ですけどね。時にはこういうのも出なくちゃダメかな、なんて」
ぼくの問いかけに、彼は浅く微笑み、そう答える。
小さく俯く華奢な横顔を、さりげなく見つめる。
私立高校には転任がなく、彼がこの学校に来てもう3年目なのに、こんな長時間間近で接するのは初めてだ。
「尾野先生って、ここに来て5年目なんですよね? 先生の古文の授業、人気ありますよね。物静かで控えめだけど凛々しくて、秘め事を抱えた貴人っぽい雰囲気がいい!って女子がいつも騒いでます」
「……どういう想像でしょうね全く。……まともに彼女もできないうちに、あっという間に微妙な歳になってきちゃって」
「え、すごいモテそうなのに。でもまあ、恋人なんて急いでも仕方ないですよ」
「…………そうでしょうか」
小さく笑いが出るぼくに、彼は蕾が綻ぶような美しい微笑を見せた。
酒の力も手伝い、会話がいつになくリズムに乗る。
鎖で縛った自分の中の何かがゆるゆると解放されるこんな感覚は、久しぶりだ。
奇妙に高揚していく波に揺さぶられ、押し隠した自分が見る間にむき出しになる恐ろしさをどこかで感じる。
——そう感じながらも、ブレーキはかからない。
「……滝島先生にはもちろんいらっしゃるんでしょうね、とびきり可愛い恋人が。だって、こんなに容姿端麗で、優秀で……」
「いませんよ、そういうのは全然」
ぼくの言葉をどこか遮るように、彼は返事を返す。
柔らかな言い方でありながら、それは微かに鋭い響きを含み——その場の空気が、すっと移り変わった。
これ以上立ち入って欲しくない、という拒否の色を潜めた眼差しが、一瞬ぼくを見据え、すっと離れた。
ここは、引き際だ。
「立ち入ったこと聞いちゃって、すみません」——申し訳ないという表情で、そう謝罪する場面だ。
いつもなら、間違いなくそういう応答を選択しただろう。
ああ。
この人は、不運だ。
ぼくの本性は、そういう人間ではない。
胸の奥深くに棲んでいたものが、とうとう頭を持ち上げる。
放ってはいけない蛇が、ぼくの唇の隙間からするりと這い出した。
「——そうですか?
滝島先生……好きな人、いますよね?」
「————」
彼の瞳が、驚きを含んでぼくを見つめる。
その奥に、暗い恐怖がざわざわと激しく揺れた。
「——僕のこと……何か、知ってるんですか」
「……すみません。
こんな風に驚かすつもりはなかったんです。
でも……」
「…………
この会がお開きになったら……少し、時間ありますか」
彼が、動揺を必死に押し殺した小さな声でそう呟く。
「ええ。もちろん」
ぼくはそう答えて静かに微笑んだ。
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