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暑気払いが解散になり、参加者達は店の外でそれぞれの方向へと散っていった。
ぼくは、店の裏手の人気のない暗がりに滝島先生と立っていた。
こうして自分から引き止めながら何も言えずに俯く彼の顔を、ぼくは少し覗き込むように微笑む。
「……誰かから、噂や何かを聞いたわけじゃないんです。
ただ——気づいてしまった、というのかな。
あなたのことを、見ていたから。ずっと。
あなたが、いつも誰を見ているか……そして、誰があなたを見ているか。
時々さりげなく寄り添うようにいる様子や、そんな気配を」
「————」
ぼくの視線を、彼はただ怯えるように受け止める。
「彼とは——佐山先生とは、恋人同士?」
反応を必死に堪えようとする彼の青白い頬が、隠しきれずに一気に紅潮する。
羞恥に波立つその美しい表情を、ぼくはじっくりと堪能する。
そして、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「ぼく、彼とは同期なんですよ。
佐山先生って、ちょっと不思議なところがありますよね。飄々として時々何を考えてるのかわからなかったり、無表情なのにたまらなく情熱的なものを秘めてたり。ああ、やっぱり美術の先生だな、なんて思ったりして。
けど……佐山さんとあなたとの関係に感づいた途端、ぼくの脳内で二人があまりにも心地好さげに絡み合うから——
ぼくがどんな思いであなた達を見ていたか、知らないでしょう?
けど、驚きましたよ。半年後に結婚予定なんですね、彼。そういえば、最近少し変わった気がする。丸くなった、というか。幸せに満ち足りている証拠ですね。
彼は随分残酷な人だ——あっさりと別れ話をされましたか?」
「————
誰にも、言わないでください」
一瞬苦しげに唇を噛んで、やっと声が出たかのように彼は小さく呟いた。
「ええ。もちろん、誰にも言わない。
けど——ごめん。
約束を守る条件を、つけてもいいかな?」
彼は、ぎょっとしたように顔を上げる。
「————」
「ぼくと、付き合ってくれる?」
「…………」
「そんなに怖がらないで。
恋人らしいことをあれこれ無理強いする気はないよ。あなたが嫌だということは、しない。絶対に。
ただ、ぼくの希望とあなたの気持ちが一致することを、一緒に楽しみたいだけ」
「——意味が、わからない……」
「簡単だ。
あなたは目を閉じて……彼としてる、って、想像してほしい。好きなだけ。
ぼくは、あなたの望むことを何でもしてあげる。
ぼくはこんなにも、あなたのことを想ってる。
あなたは、ぼくを使って彼が側にいない寂しさを埋めればいい。ぼくも、それで幸せだ。
——どう?」
「……断るっていう選択肢がないのは、あなたが一番よく知ってるでしょう」
「……そうだね。
最低の人間、と思うだろう?
でも……
あなたとぼく、同じだよ。
恋い慕う相手の心が、決して自分のものにはならない。——同じ苦しさを抱えてる。お互いの苦しさを、嫌という程理解できる。
それならいっそ、同じ苦しさの中に二人で一緒にぐちゃぐちゃに浸るっていうのも、素敵じゃないか」
少しの間を置いて——ぼくの言葉の意味を理解したように、彼はぼくを見つめる。
半ば諦めを含んだ、それでいて、行き場のない悔しさを瞳の奥に燻らせた"Yes"が、そこにあった。
不意に頭を擡げたぼくの本性は、ざらりとした舌舐めずりをしながら満足げに頷いた。
そこに成立したのは、泥沼のように何一つ実ることのない関係。
それでも——ぼくの奥底の何かが、低く呻き続ける。
仕方ないじゃないか。
決して叶わない思い。
そんな満たされない思いが溢れて、人の世は動いていく。
手の届かない何かに向けて、誰もが手を伸ばす。
何かを掴んでもなお、まだ自分の手の中にない何かに向かって更に手を伸ばす。
延々とそれを繰り返し——一体いつ、満たされる?
欲しいものが得られないならば、その悔しさを互いに慰め合えばいい。
堪らない寂しさが少しでも紛れるならば、それでいいじゃないか。
その後に虚しさしか残らないとしても——独りで膝を抱えて泣くよりは、きっといい。
そうだろう?
「——ねえ、キスしようよ。
ぼくも、そうレベルは低くないはずだよ?」
正論とも倒錯とも知れぬ胸の呻きを聞きながら、ぼくは彼の耳元にそう囁いた。
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