第2話:貝殻の行方、空模様

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第2話:貝殻の行方、空模様

 ハグミは灰色の壁の前に立っていた。上にも横にも、どこまでも続いている巨大な壁は、周囲に存在する巨大な湖からこの地を守っているのだという。水門と呼ばれる施設は、街のいたるところに設置されているが、その多くはこの壁際だ。複雑な水路を流れる水の量を制御するために、はるか昔に建造されたという話は、いつだったか学校でアンソニー先生から聞いた。 「早くしないと……」  ハグミは、錆びた鉄のはしごを駆け足で登ると、壁の真上に設置された小屋に入っていく。薄暗い施設の中に灯りになるようなものはない。外から入り込む微かな西陽に浮かび上がっているのは、歯車を動かすためのハンドル装置だ。このハンドルを操作することで、水門の開閉作業をこなう。  夕立の前にやらねばいけないことは、この水門を閉じること。ハグミは慣れた手つきでハンドルを回していく。程なくして水門が閉じたことを確認すると、灰色の壁に視線を向け、ゆっくりと深呼吸をした。むろん、壁の向こう側が見えるわけではない。この先には水があるだけと聞かされている。大人たちは巨大な湖を海と呼んでいた。ただ、この地でも目にする湖とは異なり、海では常に水面が揺らいでいるそうだ。水面の波を引き起こしている原因が、夜空に浮かぶ月だと知った時はとても驚いた。 ――波の音は月の存在証明だろうか。  いつだったか、ネイサはそう言って笑っていた。でもハグミは波の音を知らない。  ファベーラと呼ばれる地区は、小高い丘の上に構築された集合住宅街だ。この地で生活を営むすべての人たちの住居が密集している。カラフルなトタンで仕切られた簡易的な建物は小高い丘の斜面に幾何学的な模様を描く。人々が密集して住まねばならぬ理由はむろん、夕立だ。  夕立によってもたらされる天からの雨水は、まるで滝のように降り注ぎ、平地のほとんどを巨大な湖に変えてしまう。教会や学校が平地にあるにも関わらず水没しないのは、またファベーラが小高い丘の上にありながらも豊富な水源を有しているのは、子供たちが管理している水路のおかげなのだ。  ハグミは雨の勢いが弱まると、家の前にあるファベーラの中央広場に立ち、巨大な湖と化した平地を見つめていた。眼下に見える教会のたたずまいは、水面に浮かぶ孤島のようだ。その向こうには、小さな赤い光が規則正しく点滅している。壁の向こう側の世界として、この地に住まう人々が見ることができる唯一の景色。点滅している赤い光を縁どる灰色のシルエットは、巨大な建造物を想像させるけれども、大人たちは口をそろえて神の住まう場所と言っていた。 「ハグミっ、探したよ」 「どうしたの?」  ネイサが肩で呼吸している。珍しく息を切らしている彼の表情は重い。 「ミウとミトが帰ってないそうだ」
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