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第一話:色彩のコントラストは、灰色の中にこそ宿っている
―父母を敬うこと
数少ない母の記憶の中で、ときおり思い起こされるのは「てんきのもよう」というお話。あれはいつのことだったのだろう。ハグミは薄茶色の煤けた天井を見つめながら、遠くはないはずの記憶をゆっくりと手繰り寄せる。
―安息日を守ること
そう、あの日は教会に行く前の穏やかな午前だった。晴れ渡った空を見上げるとき、「晴れ模様だね」と言ったカエル。そして、雨空にうつむくとき、「雨模様だね」と言ったミツバチのお話。なぜ、晴れ模様は見上げるもので、雨模様はうつむくものなのだろう。そもそも、雨空は見上げることもできないほどに、膨大な水量を地表に落としていくものではないか……。ハグミの知る雨とはそういうものだったし、この教会にいる子供たちはもちろん、大人たちだってそのはずだ。
―夜闇を歩まないこと
戒律を朗読するライアン牧師の穏やかな声に、ハグミの記憶は少しだけ現実に引き戻される。この街の人々は、神により守られしファベーラに住み、そして夜の間は外に出てはいけない。先人から脈々と受け継がれてきた大切な決まりなのだというけれど、大人たちはその理由について語らない。理由とは変化に対する意味や価値。その意味が消え、価値が失われるとき、人は不安になり、そして戸惑いを覚える。漠然とした違和を感じているのはハグミだけではない。隣に立ち、その澄んだ青い瞳でライアン牧師を見つめるネイサだって、多かれ少なかれ同じはずだ。
ハグミは薄緑のステンドグラスを見つめながら、カエルとミツバチの話を微かな記憶をたよりになぞっていく。彼女にとって不思議に思えたのは、晴れ模様や雨模様があるのに曇り模様がなかったことだ。光のスペクトルによって切り分けられた鮮やかな色たちは、一見すると色彩のメリハリがあるけれども、ステンドグラスが透けて見えるように、どこか掴みどころがない。色彩のコントラストは、灰色の中にこそ宿っている。ハグミはそう思うのだ。
―主が唯一の神であること
曇り模様の不在について、ハグミは一度だけ母に尋ねたことがある。しかし、彼女の母は小さくうつむいたまま「そうしたことに思いを馳せることは、つまらないことなんだよ」とだけ言っていた。それからしばらくして「神様を信じなさい」と言葉を残した母は、ハグミの前から姿を消した。
「ハグミ、早く帰ろう」
配給の品をリュックに詰めていると、ネイサは足早に教会の出口に向かった。ハグミもテーブルに並べられた配給品を手早くリュックに詰め込むと、土を均しただけのあぜ道に飛び出した。ネイサの身長はハグミより少し低めだろうか。男の子のわりには華奢な体つきだけれども、足は驚くほどに速い。
ハグミはカエルになったつもりで空を見上げる。少しだけ目を細め、眠そうなカエルの目を真似てみると、晴れ模様が見える気もしてくる。だけれども、どこまでも続いているのはコントラスト鮮やかな曇り模様だった。じきに来るであろう。雨模様とは形容しがたい豪雨が。シセルカンドに住む人たちは、この雨模様を『夕立』と呼ぶ。
「ネイサ。水門を閉めていかないとっ」
「もちろんさ。急ごう」
後ろを振り返れば、教会から出てきた子供たちも、それぞれに家路を急いでいる。あぜ道に残された子供たちの足跡を、教会の入り口にたたずむライアン牧師は静かに見送っていた。
「あいつら、あんなとこで、いったい何してんだ」
目の前を走るネイサは急に立ち止まり、あぜ道の横を流れる川の対岸を指さす。
「ミウ、ミト。そこは危ないよ」
二人の視線の先には幼馴染の双子兄妹、ミウとミトの姿があった。ミウが妹でミトが兄ということになっているのだが、面倒見のよいミウはミトにとって姉に近い存在だった。
「ハグミっ。ネイサっ。貝殻を集めてから帰るね!ミトがまだ探していくって、きかないものだから」
貝殻はちょっとしたブームだった。大人たちの姿が見えなくなる夕立ち前の限られた時間が、子供たちにとって貝殻を手に入れるチャンスなのだ。淡い虹色を放つシセルダカラと呼ばれる貝殻は、小学校のクラスでも人気だった。
「急げよ。あれが来たらこのあたりは、あっという間に水没しちまうっ」
「わかってるわよ」
まだしばらく時間があるはずだから、きっと大丈夫。夕立が来るときは空気の匂いが変わるから。水分をたっぷり含んだ重たい空気の感覚は、生ぬるい温度を皮膚に伝えてくる。
「ネイサ、南の水門をお願いね。私は北の水門を見てくる。また明日の朝にファベーラの中央広場で。炊き出しをやるそうよ」
「ああ、ハグミも気を付けて」
子どもたちにとって重要な仕事は教会で配給の品をもらうことだけではない。高学年になると、ファベーラの水源として重要な水路の管理を任される。雨と生きる民だからこそ、そのために必要な知識を経験によって学ぶ。命の大切さ、天からの恵み、そして神に感謝の想いを……。この街に一つしかない小学校で教鞭をとるアンソニー・フレッドは、生徒にそう言い聞かせていた。
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