ちっぽけな存在

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 ポツ。  頬に感じる冷たさ。 「⋯⋯嘘だろ」  頬に感じたものに触れようと、手を持っていくまでの十数秒の間に、髪や、額、肩へと雨は落ちて、すぐに強まりだす。  夕立だ。しかも、土砂降りになるな。  大きな雨の粒が、黒真珠のような形を砂浜にポツポツと付けていく。  白い砂浜が、一瞬にして、モノトーンの水玉柄のように変えられていく。  遠くに見える雲の切れ間には、まだ、青空が顔を覗かせているっていうのに――。 「ほら。駐車場まで走って! 早く!」  とっさに、彼女の手を取って、叫んだ。  だが、掴んだその手の温度に、思わず飛び上がりそうになる。  肌に当たる雨よりも、冷たい手。  いや。氷水に突っ込んだくらいの温度。  なぜか、その手の感触に、波に飲まれていく、最期の渚の手の冷たさが重なる。  渚の手を引いて、黒く荒れ狂う波と死から必死に逃げ切るかのように、彼女の手を強く引くと、高台へと駆け出していった。 ――ハァ、ハァ、ハァ。  大粒の雨が、行く手を阻む。  1メートル先も白く霞んでよく見えない。  荒い息をさせるたびに、口内に雨粒が入り込んでむせた。  ようやく車の輪郭を見つけ、手探りでパンツのポケットから鍵を取り出すと、開けた片目だけを頼りに、鍵穴へ突っ込む。  そして、助手席のドアを開けて叫んだ。 「早く中に!」 「あっ、はい」  息もたえだえに運転席に滑り込むと、だらりとハンドルにもたれ掛かった。 ――ハァ、ハァ、ハァ。  さっき、彼女と渚の姿が重なった。  俺のこの手で助けられなかった命。  しかし、まさか土砂降りになるなんて。  雨と汗で、体にべっとりとまとわりつくTシャツが、ものすごく不快だ。  おまけに、車内には、じっとしていても汗が伝うような熱気と湿気が充満して、ここまで彼女を連れて来たはいいが、逆に申し訳なく思えてくる。 「そうだ、タオル。これ使って」 「ありがとうございます⋯⋯」 「君の言う通りに雨が降り始めたけど、それって予知能力?」 「風が変わったから。ただそれだけです」  単に冗談のつもりだった。  もし、風向きの変化だけで、雨が降る時間が分かるなら、天気予報士は要らないな。 「なら、天気に詳しいんだ」 「いえ。そういうんじゃなくて⋯⋯」 「そうだ。何か飲まない。俺、あそこで買ってくるけど」   フロントガラスから数メートル先に見える、自動販売機を指差す。  今猛烈に、カラカラに乾いた喉に、炭酸を流し込みたい衝動に駆られていた。  ガラス窓には、自動販売機の形が滲むほどの強い雨が打ち付けている。  でも、車に一本だけビニール傘を載せておいたから、あそこまではなんとか行ける。  それなのに、彼女は無言で首を振った。  やはり何も訊かずに、ここまで連れて来てしまったことがまずかったか。  よく分からない男に車に連れ込まれたら、警戒するのも、当たり前か。  まぁ、雨が止むまで、我慢するとしよう。  夕立だったら、すぐに止むだろうし。
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