洋食店のソーダ水

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 7年前の俺は、「海に謙虚に」と言う、父の言葉の意味を理解しようともせず、サーフィンの本質すらも見失っていた――。  物心ついた頃から、いつもそばには海があって、地元の子供たちの遊び場だった。  公園や森で遊ぶくらいの感覚で、俺たちは海に入る。見よう見まねで波乗りも覚えた。  学校から帰れば、ランドセルを玄関に放り投げて、「海に行ってくる」とだけ母さんに声を掛け、ボードを括り付けた自転車で、海へ向かう毎日。  サーフィンが日常の一部となっていた。  子供のころから、海が怖いと感じたことは一度もないし、ボードや波のない生活を想像した経験さえもなかった。  だが16歳で地元の大会に立て続けに優勝するようになると、海はコントロールできるものだと思い込み始めた。  今思えば、完全なる思い上がりだ。  そんな自分の愚かさに気付いたのは、渚を失ってからだった。  海は愚かな俺ではなく、不条理にも、渚を連れ去った。罰として、大切な人を亡くす苦しみを負わせたかったのだろうか。 「己の愚かさを思い知れ」と言わんばかりの絶望に、この7年苦しんできた。  皮肉だが、その苦しみを周囲に悟られたくないというプライドを原動力に、なんとかここまでやってこれた。  無理して笑顔を作り、明るく振る舞って。 「大丈夫」「平気」「元気だよ」と、心や脳が動かなくても、スラスラと口が動いた。  だから、渚を失った悲しさを、ちゃんと自覚することなく、時間ばかりが過ぎた。 「慣れ」や「日常」とは、恐ろしいものだ。  悲しみを笑顔の奥に隠し、日常に日々向き合っているうちに、それに慣れてくる。  仮面を被った自分が本来の姿に思えてくる。  それが人間の持つ「自然治癒力」や「忘れる」ということなのかもしれないけれど、俺にとっては、ただ「渚の存在」と「悲しみ」を忘れただけにすぎなかった。  だから、どうやったら笑顔の仮面が外せるのかも、もう忘れてしまった。
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