ちっぽけな存在

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ちっぽけな存在

「へぇ、知らなかった」  息を吐き出すくらいの言葉が零れ落ちる。  そこに大した意味もないし、誰かに聞いて貰いたかったわけでもない。  空っぽな心が、ぼんやりとした言葉を吐く。  その言葉が、風に乗って水平線へと向かう。 『蜃気楼伝説』 ――ただ、この不思議な景色を、竜が作った城に(たと)えるだなんて、ずいぶんロマンがあるなと思っただけ。  強いて言うなら、その伝説をこの世で初めて口にした人に対して、心からの共感と慰めの言葉を贈りたい。  水平線の向こうに、自分の知らない世界が存在すると願うくらいに、自身の置かれた状況が辛いものだったのかもしれない。  亡くした愛しい人が、まだどこかに存在して欲しいと、強く願いを込めるような。  9月半ばの厳しい残暑が続く、休日の午後。  ふと思い立って、車を飛ばした。  愛車「ボルボ」の窓を全開にすると、車内を嬉しそうに爽やかな風が駆け回った。  あてもなくハンドルを握ったはずなのに、車自身が強い意志を持つように、「あの場所」へと向かう道をひたすら進んでいく。  こうして休みの日にハンドルを握ったとしても、決して「あの場所」だけには近付かなかったのに。  窓の外を通り過ぎる7年ぶりの景色は、何もかもがあの頃のままで、鼻先をくすぐる甘い潮風の匂いが、胸の内をチリチリとさせた。  この時期になると、家族連れや恋人同士、男女グループなどの騒がしさはパッタリと途絶え、海開きの期間を終えた海岸沿いの駐車場は、見事に閑散とする。ガランとした駐車スペースが、物寂しく感じるくらいに。  でも、夏の終わりは嫌いじゃない。  むしろ、この季節のうら悲しげな空気感が、肌に合っている。切ないくらいの空が、俺にはちょうど良い。
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