ちっぽけな存在

2/10
前へ
/69ページ
次へ
 7年前に、俺はこの海を離れた。  ちょうど、大学卒業と就職のタイミングが重なったこともあるけれど、それ以上に、海から遠ざかる深刻な理由があった。  それ以来、この海岸には近寄っていない。  近くに用事で来たとしても、わざと避けた。  完全に自分の世界から、「海」というものを、自らの手によって排除したのだ。  以前、サーフィンでプロを目指していた。  一日の大部分をサーフィンに費やし、頭の中は常に波乗りのことだけに占拠されているような生活を送っていた。  それなのに、十代のほぼ大半を過ごした、思い入れの強いこの砂浜を、俺は捨てた。  それはある出来事をきっかけに、海に対する強い恐怖心を感じるようになったからだ。  それまで絶対的な味方だと思っていた存在が、突然信じられなくなる日がくるなんて思いもしなかった。 ―― 深い、深い、絶望だった。  頬を伝う雫が、スマートフォンの画面にポタリと落ちて、丸く広がる。  まるで、涙みたいな、汗の粒。  この暑さのせいか。精神的な脂汗か。  今検索したばかりの「蜃気楼」という文字が、丸い雫に拡大されて歪む。 「蜃気楼⋯⋯か」  これでもかと強く照り付ける日差しが、落としたばかりの汗を、端の方からジリジリと乾かしていく。  映画「レオン」の殺し屋みたいな丸いサングラスを、人差し指で少しだけ下にずらすと、白く乱反射した光が、容赦なく目に飛び込んで来て、奥の方がしみた。  まさに、その「楼閣」が目の前に姿を現し、本来見えるはずのない幻の情景を、ユラユラと作り出しているのだ。  サーフィンをやっていたあの頃も、たぶん、同じ光景を見ていたはずなのに、全くと言っていいほど記憶に残っていなかった。  あの頃、俺は一体何を見ていたのだろう。  肝心なものに目を背けて、必死に見ようとしていたものは、何だったのか――。 
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

96人が本棚に入れています
本棚に追加