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一週間後、俺は同じマンションの玄関口で彼女と待ち合わせた。
待つこと十分ほど。きゅるきゅると穏やかな音と共に彼女が現れた。瞳の色に似た青紫のワンピースを身に着けて日傘を差している。もっとも、日傘は彼女の手ではなく車椅子の背もたれから伸びたアームに支えられていたけれども。
「やあやあ、待たせたかい?」
出会った日と同じように右目を閉じてモノクル越しに微笑む。
「いえ、そんなには。えっと、それは?」
俺が傘とアームを指差すと、彼女はにんまり笑って車椅子の肘掛けについているパネルに指を這わせた。指の動きに合わせて日傘の角度が変わり閉じたり開いたりと細かな動作をしてみせる。
「傘があれば二の轍を踏むこともないだろうと思ってね、付けてみた。突貫工事だったけどなかなかいいと思わないかい?」
「凄いですね、つーか仕事早っ」
「ふふ、PDCA回してかないとねえ」
驚いている俺によくわからない言葉を言いながらドヤ顔する彼女。
「ピーデー……なんです?」
「ああ……心配しなくても就職したら嫌というほど聞かされるよ。それより立ち話もなんだ、近くに行きつけの喫茶店があるんだけど、どうかな。奢るよ? もちろん対価は頂くけれども」
「対価を取るのに奢るって……俺はいったいなにを払えばいいんです?」
半笑いで問う俺に対して彼女は車椅子の肘掛けをぽんと叩いて笑顔を返す。
「なあに、簡単な労働さ。喫茶店まで押してくれないかな? バッテリーにはたっぷり余裕を持たせているけれども、まあそれでも無限じゃあないからねえ」
「なるほど、そういうことならお安い御用です。道案内お願いしますね」
俺は彼女の後ろに立つと押し手を掴んで歩き出した。彼女の短い髪の間から時折無防備なうなじが垣間見えて動悸が早まる。なにか考えて気を紛らわせよう、そう思ってふとこの一週間で気になったことを想いだした。
「そういえばひとつ聞きたいことがあったんですけど」
「ん? なんだい?」
「そのカバーに描いてある“運命の車輪”なんですけど、これって本来なら善悪二匹の獣とは別に、その上に支配するような何かがいますよね」
俺がさらっと調べた感じでは、どのカードにも善悪の存在とその上に支配者のような、合わせて三者が描かれていた。けれども彼女の車輪に描かれているのは二者だけだ。
「……なるほど、それを描かないのか? って話だよね。なかなかいい着眼点じゃあないか」
「え、そうですか」
「考察はちょっと、いやだいぶ足りないけどねえ」
「あ、そうですか」
このひと上げて落とすのが好きなのかな。結構傷付くんだけどな。けれども俺の気持ちとは関係なく彼女は続ける。
「それは描く必要が無いから描いてないのさ」
「どういうことです?」
まったく理解できない俺を、このときばかりはそれこそ嘲笑うように彼女は言った。
「描くまでもない、なんせあたいがここに座っているんだからね」
そう言って彼女は左手の親指で自分を差す。
「この“運命の車輪”を支配してるのは、ここに座ってるあたいに他ならない。そうだろ?」
聞きなれない表現がすっと腑に落ちた気分だった。“運命の車輪”を“ポリシー”や“モットー”ではなく、己の“シンボル”って言い方をしたのは、彼女にとって運命とは解釈に身を委ねるものではなく、支配し乗りこなすものだからか。
「あーなるほど。なんか色々すっきりしました」
「そりゃよかった。さて、それを踏まえてキミも認識をアップデートしなけりゃいけないねえ?」
「え、俺すか」
「男の子が一度言い出したことだぞ。頑張ってみるんだろう?」
背中越しに見上げる彼女は優しくて。そうだった。俺は……。
「そいやそんなことも言いましたね。自分の運命を支配かあ」
ずいぶんと難しい話になってしまったけれども、今更やらない、とも言えないんだろうな。
まあ俺の運命は今のところ自分で支配どころか盛大に彼女の車輪に巻き込まれてる真っ最中といったところなんだけれども。
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