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◆第二章 【辰巳の滝】凪砂◆
一時間ほど前、伊咲屋の遊技場でダーツに興じていた。
しかし僕たち三人は今、ネノシマの山中を歩いている。
「今からいってみる?」
朔馬の投げたダーツはブルに刺さったので、僕も波浪も「すごい」と短い拍手をした。
「ネノシマに?」
「うん」
「今? え、今いくの? まあ、いいけど」
「筆鳥も返したいし、現状を考えたら早い方がいいかと思って」
朔馬は一拍おいた後で「ハロもいく?」といった。
「私も? いいの?」
波浪は、僕と朔馬を交互に見た。
朔馬が波浪を誘ったのは、秘密を作っていたお詫びなのだろう。そもそも入れ替わりをどうにかするためには、波浪はネノシマにいく必要がある。
しかしこの状況に限っては、内心は反対したかった。
「朔馬がいいなら、いいんじゃない」
結局、僕は表立って反対することはできなかった。
「あ、でも今日は禍(まが)の日だな。どうしようかな」
「マガノヒ? なにそれ?」
「ネノシマには黄泉の国に繋がってるとされる、黄泉穴(よもつあな)っていう洞穴(ほらあな)があるんだ。満月の翌日つまり今日、だよな? その洞穴の蓋(ふた)が開くんだよ。黄泉穴からは、害妖や鬼の類が大量に出てくる」
「え、こわいな」
「ちなみに禍の日に対処するのは、妖将官の大きな仕事の一つだよ」
「妖将官って多くないんだろ? みんなで退治するの?」
「大切な任務がない限りは、全員出陣だよ。勤続年数の短い者から順に囲んで、害妖を退治するんだ」
「つまり新人が最前列?」
「うん。後方にいくにつれ、勤続年数が長くなる。役職者は最後尾を任されてるけど、役職者の出番がこない日も多いよ」
「じゃあ前方の人が頑張る感じなんだ?」
「禍の日にどれだけ動けるかは、出世に直結するからね。自分の負傷や、体力の消耗とか、総合的に考えて、自己判断で前線を退くんだ。その判断も新人の性格を知る上で、重要視されてるらしいよ」
「朔馬は禍の日に参加しなくていいの? 役職者は当番制とか?」
「特別任務中は免除だよ」
「今日が特別な日なら、なにもしない方がいいのか? 筆鳥だけでもネノシマに帰しにいく?」
「そうしようかな。結高に筆鳥で返事だけはしようかな。そのことでこちらの現状を話したいって」
「場所は? どこを指定するんだ? 朔馬の執務室?」
「場所は辰巳(たつみ)の滝にする。気性の荒い水神がいることで有名だから、争いごとは避けてくれるだろうし。あんまりいったことはないけど、雲宿の庁舎からもそれなりに近いから」
「そんな場所があるんだな。なんかネノシマって感じだな」
僕は馬鹿みたいな感想を述べた。
「あんまりいったことない場所なら、下見しておいた方がいいんじゃない? もし相手の方が、その場所に詳しかったら、なんか嫌じゃない?」
波浪の言葉に、朔馬は「それもそうだなぁ」と呟いた。
◇
「校長室みたいだね。ここが朔馬の執務室?」
波浪は執務室内を見渡し、先日僕が感じたことを口にした。
ネノシマに来たわけであるが、前回とは違い、あまり異空間を歩くことなくここに辿りつけた。利用する度に道が整備されるらしい。
「そうだよ。コウチョウシツってなんだっけ?」
朔馬は和室で着替えながらいった。
僕と波浪は「念のため」と朔馬にいわれ、袴を穿いてネノシマへきた。前回、僕と朔馬がネノシマから穿いて帰ってきた袴である。
「校長ってわかる? とにかく学校のえらい人の部屋だよ。俺たちの校舎にはないけど」
「そんな部屋があるんだ? お待たせしました。いこうか」
朔馬は和室から下りて、靴を履いた。
「俺たちもだけど、草鞋に履き替えなくていいの?」
「そんなに人に会わないと思うし、足元を気にする人もいないと思うから、いいよ。それなりに歩くから、歩きなれた靴の方がいいと思う」
朔馬はそういうと「あ、一応二人の顔は隠しておこう」と、僕らに蔵面をつけた。
「桂馬の陣は辰巳の滝に書こうかな。ここの陣は消しておこう」
「桂馬の陣って二つ書けるんだろ? 距離が近いと書けないの?」
「一つは日本に固定してあるから、ネノシマには桂馬の陣は一つしか書けないんだ」
「あ、そっか」
「禍の日だし誰もいないと思うけど、とりあえず庁舎内では無言でお願いします」
桂馬の陣を消すと、朔馬は日本から連れてきた筆鳥を腕に抱いた。
僕と波浪はうなずき、執務室をでた。
廊下は足元にしか灯りがなく、とても暗い印象を受けた。
数歩も歩かぬうちに「おや? 朔馬じゃないか」と声をかけられた。
僕も波浪も互いの緊張が伝わった。
朔馬は驚いた様子はなく、声の方を振り返った。
「国外の任務中なんだろ? こんなところで、なにしてるんだい?」
妙に色気のある声だと思ったが、声の主もとても妖艶な女性だった。若くみえるが、あまりにも妖艶なので三十代でもおかしくないとも思った。
「そっちこそ、なにしてるんだ? 今夜は禍の日だろ?」
「そうそう、すっかり忘れていてね。遊郭で遊んでいたのさ」
その女性はくつくつと笑った。
「香明が死んじまうってんで、遊んでないと心がちぎれそうなんだよ。朔馬も日本にいっちまったしね」
「香明、良くないのか?」
「連絡がいっていないのかい? 雉の呪いが発動したんだよ。手は尽くしてるらしいけど、あと一週間もたないだろうってね」
女性はそういって、朔馬の顔を両手でなでた。
その行為に、僕は少なからず驚いた。しかし朔馬は、黙ってそれを享受していた。改めて女性の顔を確認すると、両目を閉じていることに気がついた。それに気付いてしまうと、朔馬の顔をなでる仕草はとても繊細に映った。
「ますます母親に似てきたねぇ。背も伸びたみたいだし、日本の水が合うんだね。日本の任務は無事に終えたのかい?」
「まだ任務中だよ。だから今日も、禍の日には参加はしない」
「そうかい。で? こんなところで、なにしてるんだい?」
女性は先ほどと同じ質問をした。
今度はごまかせないと思ったのか、朔馬は僕たちを見た。
「なんだい。私にはいえない任務なのかい?」
「いえない任務じゃないし、任務じゃない。ただ、上に気付かれると面倒なんだ」
その返答に、女性は満足したようだった。
「そうかい、そうかい。悪巧みってわけだね。そりゃ巻き込まれるのはごめんだねぇ」
女性は愉快そうにいった。
「でも見つけちまったんだ。なにか手伝ってやろうか? 悪巧みも楽じゃないだろ?」
女性の言葉を受けて、朔馬は再び僕たちを見つめた。
「辰巳の滝にいくんだ。銀将の陣が近くにあれば、送ってほしい」
銀将の陣。
目の前の女性は、銀将の役職に就いているらしい。
「おや、めずらしいね。本当に頼まれるとは思わなかったよ。いいよ。東の移動拠点に、いつもその辺に陣があるから、連れていってあげるよ」
女性は片目を薄く開けて、僕と波浪の姿を確認した。勝手に全盲だと思い込んでいたので、僕はたじろいだ。
「ありがとう。助かるよ」
朔馬はいった。
「この二人は? 日本の任務のお手伝いさんかい?」
「こっちに関しては、口外はできない」
「そうかい、そうかい。さぁ、おいで」
女性は虚空に陣を書いた。僕たちは朔馬に手を引かれ、その陣へと足を踏み入れた。
◇
数秒の後、僕たちは山の中にいた。
「本当に、辰巳の滝の近くなんだな」
「陣の場所は、誰にもいったらいけないよ」
「わかってる」
陣の場所は、おそらく重要事項なのだろう。しかし朔馬の行動を見る限り、消したり書いたりは容易らしい。その方が機密性は保たれるのだろう。
「ありがとう、助かったよ」
朔馬に次いで波浪も「ありがとうございました」と頭を下げた。朔馬に「無言で」といわれたが、それは庁舎内限定だったと思い直し、僕もお礼をいった。
「いいんだよ。悪巧みがバレても、私の名前は出したらいけないよ」
銀将の女性は先ほどと同じように、虚空に陣を書いた。
「わかってる」
彼女は目を閉じたまま微笑むと、音もなく消えていった。
「禍の日に庁舎で、人に会うとは思わなかったな」
朔馬は失笑した。
「結構驚いた」
「私も」
「あの人は銀将の一人で、瀬戸(せと)銀幽(ぎんゆう)っていうんだ」
「見つかって大丈夫だった?」
「大丈夫。銀幽は任務以外のことを、上に報告する人ではないはず」
朔馬は足元に落ちていた葉を拾うと、それを発火させた。朔馬が葉から手を離しても、その小さな火は僕たちの側をついてきた。
「便利だな」
「足元、気を付けてね」
辰巳の滝は距離的には近いらしいが、その道は険しかった。
僕たちは自然と縦列になり、朔馬、僕、波浪の順で歩いていた。しばし無言で山の中を歩いていると、不意に右手を掴まれた。
「なに? 疲れた?」
僕は手を握り返した。
「疲れた?」
朔馬は僕を振り返ると、その後ろに視線を向けて「あ、ムジナだ」といった。
「え? うわ、タヌキ!」
波浪の手だと思って握り返したのは、タヌキの手であった。現在、僕はタヌキと手を繋いでいる状態であった。
僕もタヌキも互いに脂汗をかきながら、顔を見合わせた。
「袖引きムジナだよ。道を急ぐ者の袖を引く妖怪なんだ」
「袖を引かれるどころか、手をつないでるんだけど、大丈夫?」
僕は袖引きムジナを見つめたままいった。
「足止めをする以外はなにもしないから、まあ無害だよ」
「この手を離すとどうなるの?」
「そのうち離れていくよ」
僕が手を離して歩きはじめると、袖引きムジナは再び僕の手を握った。
「なんだ?」
再び手を離すと、ムジナはまた僕の手を握った。
「かわいいな。俺のこと好きなのかな」
僕がいうと波浪は「ちがうでしょ」と半笑いでいった。
「そうやって足止めをして遊んでるんだよ」
「あ、なんだよ! そうか、そういう手口なのか……」
僕は小さなムジナの手を離し、歩くことに専念した。
「この傾斜の先が、辰巳の滝だよ」
傾斜の先はひらけた場所らしく、十六夜の月灯りがぼんやりと光っていた。
山の中を進むうちに、いつの間にか耳鳴りにも似た水音が聞こえていることに、その時ようやく気がついた。
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