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◆第三章 【末裔】波浪◆
ネノシマへの行き方は、想像以上に非現実的だった。
しかしネノシマ自体は、日本と何がちがうでもない気がした。知らない土地を歩いているという感覚しかなかった。
「滝だ」
凪砂は私よりも一足先に傾斜を上り、感慨深そうにいった。
傾斜を上ると、想像していたよりも美しい滝があった。辰巳の滝周辺には、浮遊している光る妖怪が無数にいた。そのことがさらに、滝を幻想的にみせていた。
ここには気性の荒い水神がいる。
そう知らされていなくても、この滝には何かいるのかも知れないと思わせる景色であった。
ぼんやりしている私たちを横目に、朔馬は「目立たない場所に桂馬の陣を書いておこうかな」と、やるべきことに着手し始めた。
その間、私は筆鳥を預かった。この筆鳥が人間の指や目玉を摂取していると思うと、ほんの少しこわい。筆鳥の頭をなでてみると、筆鳥は眠そうに目を閉じた。
「明日の準備は、桂馬の陣だけでいいの?」
朔馬が戻ってくると、凪砂はいった。
「あとは筆鳥に、辰巳の滝で会いたいって旨を伝えてもらうだけかな。何時に指定しようかな」
「今くらいの時間でいいんじゃない?」
凪砂はいった。
「そうだね。向こうも仕事だろうし、今くらいの時間にする」
朔馬は私から筆鳥を受け取ると、時間と場所を筆鳥に告げた。筆鳥は朔馬の手をひと舐めして、空を泳ぐようにして飛んでいった。数日眠っていたが、しっかり回復したようである。
「ここで揉めごとを起こすと、神様が怒るんだっけ?」
「そういわれてるよ」
「ここを指定したことで、こっちに敵意はないことは分かってくれるかな」
「そうだといいな」
朔馬は筆鳥の飛んでいった方を見つめていった。
「せっかく下見に来たし、もう少し地理を把握しておこうかな。いい?」
「いいよ。そのために来たんだし」
私たちはぽてぽてと辰巳の滝の周辺を歩いた。
「明日の待ち合わせ前に、結高がここへきて細工したりするかな?」
「敵意がない限り、それはないと思う。いざとなれば、桂馬の陣で逃げ帰るよ」
辰巳の滝の周りをぐるりと一周する頃、朔馬は「誰かいる」と声を潜めた。
朔馬の視線に目を向けると、そこには眼帯をした男性がいた。彼は私たちと同じような袴を穿いていた。
「こんばんは」
その男性は私たちに気付くと、そういって軽く頭を下げた。私たちも「こんばんは」と返した。
「巣守結高?」
朔馬がいったので、私と凪砂は「え?」と朔馬を見た。
男性は「いかにも」と涼やかな声でいった。
「あなたは、桂城朔馬くん、ですか?」
「いかにも」
朔馬は落ち着いた声でいった。
驚く私たちとは反対に、朔馬も結高も冷静に見えた。
結高は攻撃する気はないとばかりに、手のひらをこちらに向けた。
「こちらに敵意はありません。本題は筆鳥に託した通りです」
指を数本、もしくは片目。
彼は筆鳥に、片目を差し出したらしい。そう思うと彼の眼帯はひどく痛々しかった。
「こちらにも敵意はない」
結高は警戒したまま手を下げると「滝にいきましょうか」と、私たちの前を歩いた。おそらく彼なりの誠意である。
「なんで、こんなことになったんだ?」
凪砂は小声でいった。
「時間と場所は指定したけど、日にちは伝えなかったせいかな。禍の日なのに悪かったな」
「そういうことか。俺たちも気付くべきだったな」
「いえ、私も明日かも知れないと思いつつ、ここに来たので、気にしないで下さい」
会話が聞こえていたらしく、結高は前を向いたままいった。
考えてみれば筆鳥は、日本で数日眠っていた。そして返事をしたのは、ついさっきである。結高にしてみれば、待ち望んだ連絡だったのだろう。
辰巳の滝に戻ると、結高の姿が改めてはっきりと見えた。年齢はおそらく三十代後半である。優しい印象を受けるが、それは彼の丁寧な言葉遣いのせいだろう。
朔馬は私たちをかばうように、結高に一歩近づいた。
「瑠璃丸を探してほしいってことだったけど」
結高は深刻そうにうなずいた。
「もちろん報酬はお支払い致します」
朔馬は軽く首を振った。
「瑠璃丸は、すでに日本で発見した」
結高は驚いたような目で朔馬を見つめた。その目は先ほどよりも、光を宿しているように思えた。
「たまたま発見できたんだ。でもネノシマの結界に弾かれた瑠璃丸を、再びここに連れてくるのは難しいと思う。絶命する危険がある」
結高はとてつもない速さで、何かを思考しているようだった。
「史実では、須王家の領地に入った瑠璃丸が、国外まで弾かれたということでした」
「うん」
「須王家の領地でなければ、ネノシマに戻って来られるのではないかと、そう思っているのですが、どうお考えですか?」
「領地とは関係なく、瑠璃丸はネノシマの結界に弾かれると思ってる。その可能性がある以上、試すことはできない。瑠璃丸が死ねば、若矢香明も死ぬ」
「瑠璃丸は今、瀕死の状態なのでしょうか?」
「おそらくそうだな。今は石になってる」
「石、ですか」
「おそらくかなり危ない状態で、日本にきたんだと思う。そういえば瑠璃丸が日本にきたのは、結高の筆鳥と同時くらいだったよ」
「私が筆鳥を飛ばしたのは、瑠璃丸の呪いが発動して少し経ってからだったと思います。瑠璃丸は結界に弾かれた後、何日もかけて、ようやく日本へ着いたのかも知れません」
「筆鳥は瑠璃丸の軌跡をたどって、日本にきたのかも知れない。同じ場所に辿り着いてたから」
朔馬はぽつりといった。
「若矢。若矢香明の容態はどうですか?」
「よくない。一週間ももたないと聞いた」
「一週間。そうですか。私は、瑠璃丸に会って、一刻も早く呪いを解きたい」
結高は話題を切り替えるように、きっぱりといった。
「理解できるし、俺も同じ気持ちだ。でも一か八かで、瑠璃丸を岩宿の領地へ連れてくるべきなのか? 瑠璃丸が死ねば、両者が命を落とすんだろ?」
結高は沈黙の後「もし」と口を開いた。
「私が日本にいけたら、日本で呪いを解除できます。その方が危険は少ない」
「酷なことをいうけど、俺自身は岩宿の金将に、国外への通行許可がおりるとは思ってない。もちろん、上に聞いてみないと、何事も始まらないわけだけど」
「許可はいりません。審議の時間も惜しい」
結高は先ほどより早口にいった。
「許可なしでかまいません。あなたの一存で、私を日本につれていって下さい」
「許可なしで? 死ぬだろ。賛成できない」
「運が良ければ、生き延びられます」
「呪いを解いたところで、自分が命を落としたら意味がないだろ。若矢香明の呪いが解けるだけだぞ」
結高は「思いのほか素直な人ですね」と苦笑した。
そして結高は、私と凪砂に目をやった。品定めをするような、そんな目だった。気が済むと、結高は決意したように息を吐いた。
「呪いが発動すれば、巣守の末裔も死ぬと筆鳥に伝えてもらいました。そこに嘘はありません。しかし巣守の末裔は現在、私ではなく、先月生まれた私の息子です。だから私は、こうして単独で行動しています」
「息子が呪いの対象だと、なんで単独行動なんだ?」
そこが気になるのか。と思ったが、凪砂も同じだったらしく私と目が合った。
「私は岩宿に所属していますが、息子は岩宿と直接関わりはありません。岩宿は、息子のために動きません。これは私たち一族の問題で、それだけです」
「そういうものなのか」
「私は組織の駒というだけです。私は組織のために動きますが、組織は私のために動きません。自分のものは、自分で守る以外にありません」
その言葉は素直に落ちてきた。おそらく彼の本心だからだろう。
「結高が日本にきた場合、日本に禍穴(まがあな)が出現するんだよな?」
「そうなります」
禍穴というのは、禍(まが)の日と無関係ではない気がした。つまり、あまりいい意味ではないのだろう。
「そうか。君は日本からの苦情で、その対処に当たっているんでしたね。向こうで禍穴が開けば、迷惑がかかりますね」
「日本での面倒事は、避けたいのが本音だ。でもいくつかの命を救えるなら、譲歩するべきなんだとは思う」
「お願いします。どうか私を、日本に連れていって下さい。呪いはかならず解除します」
結高は頭を下げた。
朔馬は答えに窮し、私たちを見た。私たちは、ただうなずくことしかできなかった。朔馬の出した答えなら尊重すると、そういう意味を込めたつもりであったが、伝わったのかはわからない。
「もう少し考えたい。他に方法はないのか、お互い考えるべきだと思う」
「今夜の件も、雲宿に報告しますか?」
結高は頭を下げたままいった。
それから結高は頭を上げると、再び私と凪砂を見つめた。雲宿の人間と認識されているのだろう。
「結高が皇帝の許可証を必要としないなら、報告することで事態が好転するとは思えない。報告はしないと思う。もちろん、息子の件もいわないよ」
「助かります。どうか、どうか私を瑠璃丸に会わせて下さい」
その声はあまりに切実で、覚悟を決めた声に聞こえた。
彼は本当に、朔馬以外に頼れるものがないのだろう。
◆
「今夜、結高に会うとは思わなかった。銀幽もそうだったけど」
結高と別れると、私たちは早々に日本に帰った。
西弥生神社の鳥居に着くと、私たちは安堵の息を吐いた。
「結果的によかったんじゃない? 早めに会うに越したことはないだろ」
「前向きに考えるとそうかな。でもどうしようかな。結高を日本に連れてきたら、たしかに色んなことが解決するんだけど」
「ネノシマの人は、俺たちみたいに簡単に往復できないんだ?」
「ネノシマの者が、無許可で国外に出ると禍穴(まがあな)が開くんだ。禍穴っていうのは、禍の日の簡易版というか、出張版みたいな感じ」
「妖怪とかがでてくる穴ってこと?」
「うん」
「どれくらいの穴なんだ?」
「一説によると、禍穴は元凶と同じくらいの大きさで出現するらしい。だから、結高の身長くらいの球体かな」
朔馬は「これくらいかな?」と両手を広げた。
「禍穴が存在できるのは、最長で半刻だったかな。つまり、六十分かな。でも元凶である結高が死んだら、その瞬間に禍穴も消える」
「死んだら、か。あくまで禍穴の狙いは結高ってこと?」
「うん、禍穴から出てくる妖怪は、元凶である結高しか狙わないはずだよ」
「六十分耐えきれば、結高は生きて帰れるの?」
「理屈ではね。そうだよ」
「でも一人で六十分も戦い続けるって、現実的じゃないよな? ハーフタイムがあっても無理な気がするけど」
「俺も無理だと思う。だから許可なしで国外に出ると、死ぬっていわれてるんだと思う。今回、俺は結高に加勢するけど、二人で六十分戦い続けても、勝算は高くない気はする」
「結高が岩宿の人に事情を話せば、日本に加勢がくる可能性はある?」
「加勢の数だけ禍穴が開くよ」
「それはそうだな!」
「やっぱり死ぬ可能性が高いとわかっていて、結高を日本に連れてくるべきじゃないかな」
「でも、このまま何もしなければ、若矢香明と結高の息子の二人が死ぬんだろ? 命は数字でみるべきじゃないとは思うけど」
「凪砂のいう通り、なにもしなければ、二人は死を待つだけだよ」
「俺が加勢すれば、結高が死ぬ可能性は少し下がる?」
朔馬は「え?」と凪砂を見た。
「なに? 変なこといった?」
「いや、日本で禍穴が開くなら、二人は絶対に家にいて欲しいと思ってたから。二人とも見鬼だし」
「妖怪がいっぱい出てくるから? でも禍穴から出てくる害妖は、結高しか狙わないんだろ?」
「それは、まあそうだね」
「それなら、あんまり危険はないだろ」
朔馬は思考がまとまらないまま、凪砂の顔を見つめていた。
「朔馬の妖術書は、毎日読んでるよ」
朔馬は「巻き込んでいいのだろうか?」とばかりに、私に視線を向けた。私は了承の意を込めてうなずいた。巣守結高のなにを知るでもないが、誰かの死は避けるべきである。
「私も、できることがあるなら協力するよ」
朔馬はどこか気が抜けたようで、深くなにかを思考しているような、なんともいえぬ表情をしていた。
――あの雉、本当に死んじゃうの?
私はあの雉を夢に見たはずである。
呪いを背負ったあの雉を救いたい。
あの雉が、万が一にも救われる未来があるのなら、私はそれに賭けてみたかった。
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