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◆第四章 【森鬼雷走】凪砂◆
「この術なんだけど、できそう?」
ネノシマで結高に会った翌朝、朔馬にルーズリーフを渡された。
電車の中は、いつものようにまばらに人がいる。そのどれもが「なんとなくみたことのある顔」になりつつある。田舎の電車なんてそんなものである。
朔馬に渡されたルーズリーフに目を通すと、術を発動させるための必要最低限の知識と、術の発動方法が簡潔に書かれていた。昨夜のうちに、書き起こしてくれたのだろう。
「これ、妖術書の三章の応用?」
「そうだよ。そこまで理解してるんだ。すごいな」
僕は「へへ」と得意げに笑った。僕も波浪も褒められて育ったので、褒めることも、褒められることにも慣れている。最近では朔馬もそれに影響されているようである。もしくは、僕の扱いに慣れたのかも知れない。
「俺は、この術を覚えるだけでいいの?」
「それだけで、だいぶ助かるよ。でも集中力と体力がいるから、説明よりは簡単じゃないかも知れない」
「わかった。できることはやってみるよ」
「凪砂にこんなこと頼んで、本当にいいのかなって気持ちはまだあるんだけど」
朔馬は車窓からみえるネノシマを見つめた。
「いいよ。人が死ぬって穏やかじゃないし、助けられるなら助けたいから」
朔馬は「ありがとう」といったが、その礼は彼から聞くべきものではないように思った。
「もし結高が助かったら、その後はどうなるの?」
「その後? 万が一、結高が生きのびられた場合の話?」
僕は「万が一か」と反芻した。
「楽観視しすぎた?」
「そうは思わないけど。でも結高が助かったとしても、かなり疲弊してると思うし、無傷ではいられないから危険はないと思うよ」
「あー、違う、かな。その先の話。結高が元気になったとして、その後、結高が朔馬の脅威になったりしたら嫌だなと思って」
朔馬は考えていなかったらしく、思考を巡らせているようだった。
僕は生まれてから今まで、幸いにも天敵のような存在はなかった。だからこそ岩宿という組織が、必要以上に恐ろしく思えていた。
「これから命をかけて呪いを解こうって人に、そんなことを考えるなんて不謹慎かな」
朔馬は首を振った。
「助かったら一生朔馬の命令を聞きますとか、そういう契約してもいいんじゃない? もしくは、御礼をたっぷりしてもらうとか」
僕は本気であったが、朔馬は短く笑った。
「とりあえず、御礼をくれるなら、遠慮なくもらおうかな」
人が死ぬ。
その事実が、まだ現実味を帯びていない。だから僕はこんな残酷な話をしているのだろう。
禍穴を前にして、ただ茫然と立ち尽くしてしまったらどうしようと、頭の片隅で考えている。僕のせいで結高が死んだ場合、僕は関わったことを後悔するのだろうか。
不安を口にしたら、朔馬はきっと「やっぱりやめよう」といってくれるだろう。そして僕の知らない場所で、人が死ぬのだろう。
そして朔馬だけが人知れず、なにかを背負うのだろう。
◇
「正義? そんなん、二年前に死んだぞ」
毅は液晶画面に視線を落としたままいった。
「俺たちは二年間、正義のない世界で生きてたのか」
「そうだぞ」
「とりあえず、正義が死んだ話を聞こうか」
僕はいった。
「なんだったかな? 俺がクシャミした時に、透子にうっさいっていわれたんだよ。そんでケンカした」
僕は「あー」と短くいった。
「毅のクシャミは鼓膜にくるから、時と場合によっては腹立つかもな」
「周りの気持ちも考えろって、すごい怒られたんだけど。アイツ自身はなんなの? 俺の気持ち考えないわけ? 俺は今後一生クシャミしちゃいけないわけ?」
「そんなこといってないだろ。でも周りに迷惑をかける時点で、毅の負けだな」
「うわ、出たよ。正論が正解だと思ってるヤツ。ヤダヤダ」
「透子とのケンカで、毅が正しかったことないだろ?」
「長年黙ってたけど、俺はクシャミをする度に、地球に向かってくる小惑星を破壊してるからな。それでも透子が正しいといえるか? 俺は何度、地球の危機を救ったか分かんないぞ」
朔馬は黙って英単語帳を見つめていたが、一瞬だけ視線を上げた。
「スケールが大きすぎて、全然ピンとこない」
「そうだろうな。ネギが思う以上に、世界は広く大きい」
「それは、そうかもな」
「そうだろ。そんなネギが何を考えても、ピンとくるはずがない。下手の考え休むに似たり」
「正義が死んでも、俺は気付かないわけだな」
「そういうことだ。しかしタイトル戦、盛り上がってるな。伊咲屋の女将も紹介されたりすんの?」
「将棋で女将を紹介されても困るだろ。でもタイトル戦が盛り上がってるか、どうかなんて、わかるのか?」
「コメントの数がすごい」
毅が見せた画面には、将棋盤をにらむ二人が映っていた。その頭上には、大きく偏った評価値があった。そして画面の端には、追いつけないほどのコメントが寄せられている。
同じものを見ていても、盤上でなにが起きているのか僕にはわからない。
きっと今も、自分がなにをしようとしているのか、本当の意味では理解できていないと思う。
◆
放課後、僕と朔馬は西弥生神社へ向かった。
神社の裏手には、鳥のかたちをした石があった。
それを指し、あれが瑠璃丸だと朔馬はいった。瑠璃丸は隠されるようにして、ひっそりと存在していた。
「生きてるの?」
「生きてる。死んだら、きっと跡形もなく消滅すると思う」
朔馬は瑠璃丸の頭をなでた。
反応はない。
境内に戻ると、僕が術を発動できるかどうかを確かめることにした。実践してみると、容易にそれができた。
朔馬は「止めていいよ」とすぐにいった。
「できると思ってたけど、やっぱりすごいな」
「できたけど。なんか、なんだろう? 体力不足な気がする」
僕は深く呼吸を吐いて、軽く痺れの残る両手を見つめた。
術に見合う体力がないことを、身を持って体感した気分である。考えてみれば、高校入学以降は体育でしか体を動かしていないように思う。
「術の理解を深めると、体力的にもう少し楽になるかも知れない。もしくは連発すると、体が勝手にサボり方を覚えてくれるはず」
「練習で連発していいの?」
「体力が続くならいいよ。無理はしなくていいけどね。俺たちの年齢だと、翌日まで疲れは残らないと思う」
「今夜が本番じゃないの? 急ぎだろうから、今夜だと思い込んでた。朔馬はこれから、ネノシマにいくんだろ?」
「今日は結高に、明日、日本に連れていきますよって伝えるだけだよ。これからネノシマにいくのは、結高宛てに筆鳥を飛ばすためだよ」
「今すぐ連れていってくれって、いわれない?」
「それはないと思う。結高も心の準備とか、遺書みたいなものを書く時間は必要だと思うから」
遺書。
言葉にせずに反芻しては、ぞくりとする。軽んじているつもりはないが、本当に自分が人の命に関わることをしているのだと実感する。
「とりあえず、日本に連れていく旨は早めに連絡してあげたいし、いってくるよ」
「うん」
朔馬は「いってきます」と、その場で桂馬の陣を書き、ネノシマへと向かった。ネノシマを往復することに関して、僕たちはすでに緊張感や特別感みたいなものはなくなっていた。
ネノシマを見つめた後で、僕はもう一度術を発動させた。
できるだけ長く術を出し続けようとしたが、三十秒もしないうちに自分の底がみえた。
「変わった妖術だな」
「うわっ」
建辰坊が前触れなく、空から下りてきた。驚いたせいか、術も消えてしまった。
「なんという術だ?」
「森鬼(しんき)雷走(らいそう)って術だよ。ここで妖術を使うのはまずかった?」
「いや、かまわない」
建辰坊は興味深そうに、じっと僕を見つめた。
表情はわからないが「もう一度みたい!」という圧が感じられる。
僕は呼吸を整えて、もう一度術を発動させた。建辰坊はそれを凝視した。その視線は、品定めするような視線ではなく、朝顔の成長を観察するような、そんな視線であった。
術を止めると、僕は大きく息を吐いた。先ほどよりも長く術を出せた。しかしそのせいか、呼吸が整うのに時間がかかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫。術を使うと、なんだか疲れるんだ。慣れてないせいかな」
建辰坊は不思議そうに首を傾げた。
「その術は発動中、息をしてはいけないのか? 息をしてないだろう?」
いわれてみれば呼吸を忘れている気がしたので、僕は建辰坊を見つめて深くうなずいた。
「今度は、さっきよりも上手くできる気がする」
先ほどと同じく両手で三角形を作り、術を発動させた。
発動させて少しすると、鳥居に白い空間が現れ、朔馬が帰ってきた。
視線を外していたのは一瞬だった。しかし術は消えてしまった。少しでも集中力を欠くとだめらしい。
「おかえり。早かったね」
気を取り直して、僕はいった。
「筆鳥は問題なく飛ばせたよ。今夜もう一度、返事の確認にいってみる」
「目を回していた筆鳥は、無事にネノシマに帰れたのか?」
建辰坊は朔馬に聞いた。
朔馬は筆鳥が目覚めてから今までの出来事を、建辰坊に丁寧に伝えた。
「あの雉は、ようやく呪いから解放されるのか」
建辰坊はいった。たしかに瑠璃丸にしてみれば、巻き込まれただけである。
「日本で禍穴が開くことになるから、瑠璃丸と桂馬の陣は少し離れた海岸に移動させるよ」
「なぜだ?」
「禍穴が開くなら、人も妖怪も少ない、夜の海岸がいい。桂馬の陣と瑠璃丸を海岸に移動させれば、その場ですべてが完結する」
「海岸でなければならぬ理由は、人と妖怪が少ないからか?」
「そうだよ」
「開いた禍穴はどう対処するんだ? 対処法は考えているのだろう?」
「対処法というほどでもないけど。俺と結高で禍穴から出てくる害妖を退治する。そして凪砂には少し離れた場所から、援護として術を発動してもらう。それだけだよ」
「それがさきほどの術か。しかしあの術、長くは出せないだろう」
建辰坊は僕に視線を向けた。
「凪砂には五分間、あの術を出してもらう。その五分間は、俺と結高は休むことができる」
「禍穴の出現は半刻だったな? その休息で足りるのか?」
「十分間隔で、術を発動してもらうんだ」
建辰坊は「ほぅ」と小さくいった。
「結高は隻眼になったばかりだろう? お前の腕は信用しているが、簡単には終わらないだろう?」
「そうだね。でも禍穴から出てくる害妖は結高を狙ってくる。それがわかっているから、多少は対処しやすい」
「出てくる害妖は、すべて結高を襲うのか?」
「すべてとは言い切れないけど、九割五分は結高を襲う」
「結高を襲わなかった妖怪はどうなる?」
「俺が追いかけて退治する以外はないだろうな。日本に害妖を放つわけにはいかないから」
「しかし、それはかなりの手間だろう。お前が結高から離れたら、おそらく結高はすぐ死ぬぞ」
それは朔馬も理解していたらしく、建辰坊を見つめたまま何もいわなかった。
「ここで禍穴の対処をすればいい」
建辰坊はその視線に応えるように、朔馬にいった。
「ここ? ここで禍穴が開けば、建辰坊も無傷ではいられないだろ?」
「俺はしばらく、別の場所に避難する。場を貸すだけだ」
「なぜ避難までして、場を提供してくれるんだ?」
「娘の呪術なら、陣の中に害妖を閉じ込めておくことができる。そうすれば、害妖が遠くへ逃げる心配はない。娘の呪術が一番発揮できるのはこの場所だ。呪術はすべて、ここで教えたからな」
「たしかにそれが可能なら、俺は結高に向かってくる妖怪退治に専念できる。でも、六十分だぞ? 禍穴は結高の近くに出現するけど、出現場所が分からない以上は、それなりに大きな呪陣を書く必要がある。その呪陣の中に、すべての害妖を六十分も閉じ込めておけるのか?」
「すべての害妖を閉じ込めておくのは骨が折れるだろうな。しかし目の粗い陣なら、容易なはずだ」
「目の粗い陣?」
「鵺ほど力を持たぬ害妖はすり抜けてしまうような陣だ。その程度の害妖なら、日本にいても不思議ではないし、害も少ないだろう」
朔馬は「そうかもしれないけど」と視線を落とした。
「万全を期すなら、ハロに協力してもらって、建辰坊には避難してもらった方がいいと思う。やっぱり人命は第一に考えるべきだよ」
無意識に、言い聞かせるような口調になってしまった。朔馬はこれ以上誰かを巻き込みたくないと、そう考えている気がしたからだった。
――結高は隻眼になったばかりなのだろう?
――お前が結高から離れたら、おそらく結高はすぐ死ぬぞ
建辰坊の言葉は脅しではなく、おそらく真実である。
「でも、そこまで甘えていいのか」
「殊勝(しゅしょう)な心がけだ。しかし俺はすでに、鳥居の鍵をお前に付与している。ここで意地を張る必要もないだろう。俺は、お前たちが苦しむ姿は見たくない」
建辰坊はそういって「ただそれだけのことだ」と続けた。
朔馬は少し間を置いて「はい」と答えた。
波浪がネノシマにいくのは内心は反対だったし、それは今も変わらない。しかし彼女がネノシマに関わること自体は、反対ではなかった。むしろ禍穴が開く時に、波浪が近くに居てくれるのは心強い。
しかし僕がなにを思わなくても、波浪は自分の意志で行動する。僕たちは当然のように違う人間で、違う思考で生きている。
だから時々不安になる。出口のない森に迷い込んでしまったような、そんな気持ちに襲われる。
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