◆第六章 【タヌキ】 凪砂◆

1/1
前へ
/10ページ
次へ

◆第六章 【タヌキ】 凪砂◆

 僕たちはきっと特別なことをした。  死ぬかも知れない人の命を救った。誰かを助けられたことは心からよかったと思う。  しかし個人的には、不完全燃焼だった。  昨夜のことを思い出すと「もっとできるはずだった」という感想しか浮かばない。皇族の血を引いていても、すぐに妖術で無双できるわけでもないらしい。短期間で抜刀できたが、それだけだ。  妖術に関しては人よりも秀でているはずと、きっとうぬぼれていた。僕は朔馬にいわれたことを、ようやくこなすだけであった。  最後の方は術を出して一分も経たずに息が上がり、五分が経つ頃には、術の効果はほとんどなかったと思う。妖怪らはほとんど負傷せずに、結高へ向かっていったはずである。  なにもできなかった、とは思わない。  それでも、もう少し役に立てると思っていた。 「そういえば、結高がお金をくれたよ」  禍穴が開いた翌日の夕飯時、朔馬は唐突にいった。 「成功しても失敗しても御礼ですって、日本に跳ぶ前にくれたんだ。日本のお金に両替ができたら二人に渡すよ。三等分しよう」 「え、いくらくれたの?」  僕が聞くと、朔馬は顔が引きつるほどの金額を告げた。  しかし命を救ったとするならば、妥当な金額かも知れなかった。 「俺は大したことできなかったし、お金はいいよ」  波浪も深くうなずいた。  通帳を親が管理していることを抜きにしても、お金をもらえるほど役に立った実感はなかった。 「でも、お金って便利だよ」  朔馬は急に労働者らしいことをいった。  彼の仕事の一端に幾度か触れた今、めずらしい仕事をしているだけで、両親や、他の大人たちとそれほど違いはないように思えるから不思議である。 「便利なんだろうけど、そのお金は全部朔馬のものだよ。それより、その左腕、本当に大丈夫?」  朔馬の左腕には青アザがくっきりと残っていた。 「見た目ほど痛くないよ。でもどうしようかな。二人がお金を受けとらないなら、少し結高に返そうかな」 「それは、返さなくていいだろ。結高の命を救ったのは間違いなく朔馬だし、朔馬のいう通り、お金は便利だし」 「銀幽さんは? あの人に御礼をしてもいいかも知れないよ」  波浪はいった。  辰巳の滝まで簡単にいけたのは彼女のおかげなので、その意見は最もであった。 「たしかに銀幽なら受け取るかも知れない。口止めの心配はないだろうけど、渡してみる」 「今回の件が雲宿にバレると、やっぱりまずいの?」 「どうだろう? でも、結高を助けたこと以上に、凪砂を危険に晒したことは咎(とが)められるかな」 「俺は危険な目にあったとは思ってないし、実際に危険はなかっただろ?」 「俺はそう判断したから実行したけど、他の人がどう思うかはわからないよ」 「もし昨日、光凛が日本に来てたらまずかった?」 「そう思う。だから、ハチワレ石は一時的に封印してた」  朔馬は悪びれることなくいった。 「光凛は封印には気づかないものなの?」  朔馬はもぐもぐと口を動かしながら「うん」と悪気なくいった。 ――悪巧みも楽じゃないだろ  悪巧みだとは思わないが、朔馬は秘密裏に行動することに慣れているのかも知れなかった。 「このあと、銀幽のところへいってこようかな。置きっぱなしのお金も気になるし」 「その金額が、置きっぱなしなの? どこに?」 「辰巳の滝の近くだよ」 「誰かに盗られない?」 「術で隠してあるよ。でも金額が金額だし、ちょっと心配だな」 「そうだろうよ」 ◇  夕食後、朔馬はネノシマへ向かったが一時間もせずに帰ってきた。  辰巳の滝にあった桂馬の陣は、自分の執務室に戻したとのことだった。朔馬一人ならば、辰巳の滝から雲宿の庁舎まではさくさくと進めるのかも知れない。 「銀幽さんは? 受け取ってくれた?」  僕はリビングのソファーに寝転びながら、朔馬に聞いた。 「うん、差し出した金額の半分だったけどね。受け取ってくれたよ」  朔馬は冷蔵庫から麦茶を出しながらいった。 「あと、若矢香明の話もしてくれた。命の心配はもうないらしい」 「それはよかったな」  朔馬は「うん」と短くいった。 「あれ、あんまり嬉しくない?」 「いや、嬉しいよ。ほっとした反面、日本で禍穴が開いたことで、今後どんな影響があるんだろうって考えてた」 「逃げた妖怪のこと? でも鵺ほど害はないんだろ」 「人間にはね。でも日本の妖怪に異変が起こる可能性はあるなと思って」  朔馬は台所で麦茶を飲むと、深く息を吐いた。 「なるべく早めに瑠璃丸も返したいけど、まだ少し先かな」  瑠璃丸は現在も西弥生神社にいる。 「呪いが解けた今、ネノシマの結界に弾かれることはないんだろ?」 「そうなんだけど、結高と連絡がとれてからの方がいいと思って」 「結高と連絡はとれなかったの?」 「確認したけど、連絡はきてなかった。しばらくは療養に専念するだろうし、気長に待つよ」 「かなりケガしてたもんな」  あの夜の結高を思い出して、僕は若干青ざめた。 「骨も何本か折れてたし、起き上がるのにも時間がかかるかも」 「どんなに重傷でも、生きて帰れてよかったな」  朔馬は「うん」と、どこか気のない返事をした。  結高のことはすでに過去のことで、朔馬は別のことを考えているようだった。  僕はまだ、昨夜の無力さを嘆いたままでいる。  そのせいか、朔馬の書き写した妖術書に手が伸びる。内容はかなり頭に入っている。しかし建辰坊を攻撃してしまった夜以降、抜刀はしていない。  妖術においては、きっと僕一人の判断でなにかをしない方がいい。そんな気がしていた。 ◆◆◆  あと一週間もせずに夏休みである。  しかし進学部については、ほぼ毎日補講がある。野球部に所属している毅に関しては、夏休みの間は部活動を優先してよしとされる。  こうして最寄り駅から家までの、短い帰路を歩くだけでも汗がにじむ。  体温よりも高い気温の中で運動をする人たちを心から尊敬する。  僕も体力づくりに早朝走ってみようとは思っているが、いかんせん起きられない。いっそ夜、気温が下がってからその辺を走ってもいいのかもしれない。 「あの、すみません?」  とりとめのないことを考えていると、不意に声をかけられた。  視線を向けると、背後にはタヌキがいた。むしろタヌキしかいなかった。  ネノシマで遭遇した、袖引きムジナに似ていたが、どうもそうではないらしい。ほんの少し、僕に怯えている様子だった。  本日は朔馬が掃除当番なので、僕は一人での帰路であった。  こういう場合、返事をしない方がいいのだろうか。そんなことを考えつつも、ぽてぽて足元に寄ってきたタヌキに見上げられると無視はできなかった。 「はい、なんでしょう?」  膝を曲げてタヌキと目線を合わせると、タヌキはほっとした表情になった。そして僕の足元にすり寄ると、そのまま丸くなった。 「え、寝るの?」  タヌキに声をかけても、起きる気配はなかった。  僕は呆然としつつ、その場で朔馬に「話せるタヌキに会った。急に眠った」と連絡した。返信がくる間、自らの知識を総動員してみたが有益な情報は得られなかった。  安易に移動させても問題がある気がしたので、とりあえずタヌキに日陰を作ってやった。  朔馬から電話がきたのは、それからほどなくだった。電話越しに電車が発車する音が聞こえる。わざわざ電車を降りて電話をくれたらしい。  僕は起きたことをありのままに話した。 「妖怪じゃないと思うよ。ただのタヌキだと思う」 「でもなんか、会話できたよ」 「個体差はあるけど、タヌキは妖怪寄りなんだ。だから凪砂と話せても、それほど不思議じゃないかな。この時間帯に、タヌキに化けるような妖怪はいないはずだから、やっぱりただのタヌキだと思う」 「ただのタヌキか」 「そのタヌキが凪砂に話しかけたってことは、なにかあるんだと思う。起きたら、話を聞いてあげ……」  朔馬の声の代わりに、不快な電子音がした。画面を見ると、電池切れを意味するマークが点滅していた。 「ごめん。俺の電池切れるみたい」  朔馬に聞こえていない可能性は高かったが、僕は早口にいった。電子音はほどなく途切れ、画面は真っ暗になった。  朔馬がいうには、このタヌキは、ただのタヌキである。  しかし、どうしたものか。  感染症などが気になるので直接触れることはやめて、タオル越しにタヌキを抱いて帰宅することにした。  伊咲家の敷地内に入って少しすると、タヌキは漬物石のように重くなった。そしてそれ以上、家には近付けなくなった。一旦タヌキを庭に置き、僕だけで家に向かうと、問題なく家に近づけた。しかしタヌキを抱くと、その場で動けなくなる。このタヌキは一定以上、伊咲家に近づけないらしい。  僕は家に入ることを諦め、タヌキとともにガレージに入った。そこで朔馬の帰宅を待つことにした。僕はガレージにあるアウトドアチェアをひっぱり出して、そこに座った。タヌキは眠ったままなので、タオルを敷いて足元に寝かせることにした。  することもないので鞄から単語帳を取り出し、明日の小テストの範囲に目を通す。日陰はそれなりに涼しく、時々吹いてくる風はぬるくても心地良かった。  庭を見つめると、やけにのんびりとした気持ちになった。凌霄花の咲き誇る夏の庭は、一年でいちばん好きだと思う。先日庭師たちが整えてくれたせいか、庭の緑が若くみえる。 「すみません。眠っていました。安心したら眠くなってしまって」  タヌキはまだ丸くなったまま、首だけでこちらを向いていた。 「大丈夫?」 「最近つかれてしまったようで」  タヌキはその場で伸びをした。敷かれていたタオルに気付くと、タヌキはそれを整えた。 「君は妖怪ではないんだろ? 野生のタヌキ?」 「一応、野生のタヌキです」  僕はタヌキをじっと見つめたが、病気の有無がわかるでもなかった。 「病気の類は持ってないですよ。見鬼と話せる獣に関しては、その辺の心配はありません」  タヌキは僕の思考を見抜くようにいった。 「君と一緒だと、なぜか家に入れないんだよ」 「結界がありますね。見鬼はこの結界は見えないんで?」  見えない。そう素直にいっていいのだろうか。少し迷ったが、結局正直に言葉にすることにした。 「俺には、見えない」  タヌキは関心がなかったらしく「そうですか」とだけいった。 「タヌキって、どの人間が見鬼かどうか、わかるの?」 「わかりますよ。すぐに」  タヌキの声は深い響きを持っていた。僕が想像するより長い時間を生きているような、そんな気がした。 「凪砂」  僕を呼ぶ波浪の声に、なぜかひやりとした。  家の中には誰もいないと思い込んでいた。しかし波浪はリビングにいたらしく、リビングの縁側から顔をだしていた。建辰坊が不在だったらしく、昨日も早く家に帰っていた気がする。 「朔馬が心配してるよ。連絡してあげたら」 「あ、はい。え、いつから俺に気付いてた?」 「いつって、ずっと気付いてたよ。それより、朔馬に連絡してあげなよ」  特になにをしていたわけでもないが、ガレージでぼんやりしていたところを見られていたと思うと無駄に恥ずかしかった。 「よくわかんないけど、家に入れないなら、バッテリー持っていこうか?」  タヌキを抱いて家に入ろうとしたところも、ずっと見られていたらしい。  僕はタヌキを一瞥した後で「お願いします」といった。 「どうしたの、この子」  波浪はすぐに携帯のバッテリーを持ってきてくれた。  こんなことなら僕だけで家に入り、バッテリーを持って来ればよかった。タヌキに話しかけられたことで、僕は少なからず冷静ではなかったらしい。 「さっき、そこで話し掛けられたんだ。朔馬がいうには、妖怪とかじゃなくて、ただのタヌキなんだって。でもなんでか、タヌキと家に入れないから、ここで朔馬の帰りを待ってたんだ」  バッテリーを受けとりながら、言い訳するようにいった。一連の行動を見ていたはずの波浪は「へぇ」とだけいった。  朔馬に連絡をいれると、すぐに「無事ならよかった。もうすぐ最寄駅に着くよ」と返事がきた。  ほんの少しの時間でも、彼に心配をかけてしまったことを猛省した。おそらく連絡のとれない僕を心配し、波浪に連絡を入れたのだろう。  学校にいても、家にいても、桂城朔馬という存在にあまりにも違和感がない。  だから彼が僕の護衛をしている事実を忘れてしまう。そして心のどこかで、朔馬自身もそれを忘れてしまってもいいのにと思っている。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加