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◆第七章 【躙り口】 波浪◆
タヌキだ。タヌキがいる。
凪砂がタヌキを抱えて、学校から帰ってきた。
タヌキを抱えた凪砂は、一定の距離になると家に近づけないようだった。
なにをしているのか気になったが、編み物を続行した。私のソファーから玄関付近は見えないが、何も映していないテレビには凪砂の一連の行動が反射して見えている。
少しすると凪砂はタヌキとともに家に入ることを諦めたらしく、ガレージに向かった。その後アウトドアチェアを出して、凪砂はタヌキをかたわらに単語帳を開いた。なにがしたいのかわからないが、そういう時もあるのだろう。
ほどなく朔馬から「凪砂と連絡が取れない」との連絡がきた。私は窓越しに凪砂の写真を撮り、朔馬に送った。朔馬からは「ありがとう」と、すぐに返信がきた。連絡がとれないと嘆く朔馬と反対に、ガレージで物思いにふけっている凪砂をみると、一声掛けようという気になった。
窓を開けて声をかけると、凪砂はなぜか驚いた様子だった。
「朔馬が心配してるよ。連絡してあげたら」
「あ、はい。え? いつから俺に気付いてた?」
なぜ気付かないと思っていたのか。
「いつって、ずっと気付いてたよ。それより、朔馬に連絡してあげなよ」
おそらく無意識に朔馬への連絡を怠り、その姿を私に見られていたせいか、凪砂は恥ずかしそうにしていた。
同じ学校に通っていた時は、互いの友人関係に口を出すことはなかった。しかし朔馬に関しては「凪砂の友だち」という認識はすでにない。だからこそ余計な一言を付け加えようかと思った。しかしタヌキとなにかあったことは容易に想像できる。
「よくわかんないけど、家に入れないなら、バッテリー持っていこうか?」
凪砂は「お願いします」と申し訳なさそうにいった。余計なことをいわなくてよかったと静かに思う。彼は反省できる人間である。
「どうしたの、この子」
「さっき、そこで話し掛けられたんだ。朔馬がいうには、妖怪とかじゃなくて、ただのタヌキなんだって。でもなんでかタヌキと家に入れないから、ここで朔馬の帰りを待ってたんだ」
「へぇ」
タヌキは私を見て「あなたも見鬼なんですね」と落ち着いた声でいった。私は浅くうなずいた。
「見鬼かどうか、わかるらしいよ」
凪砂は液晶画面に目を落としたままいった。
「そうなんだ。便利だね」
「便利だけど、日本にはあんまり見鬼はいないんだろ?」
タヌキは凪砂の問いに答えてくれようとしたが、なにかに気付いたように、垣根の方に視線を向けた。
視線の先には、息を切らせて帰ってきた朔馬がいた。よほど凪砂のことが心配だったのだろう。遠目でみると、左腕の青アザが改めて痛々しかった。この傷も見鬼以外には見えないらしい。
凪砂が駆けつけた朔馬に謝ると、彼は気にした様子はなく「無事でよかった」といった。
「あれ、このタヌキ、つかれてるね」
「疲れてたみたいで、さっきまで寝てたんだ」
「そうじゃなくて、変なのに憑かれてる」
「はい。そのことで、ここに来ました」
タヌキはいった。
「なぜここに来たのか気になる。話を聞くよ」
タヌキはうなずいた。
「この子と家に入ろうとしたんだけど、なんでか入れなかったよ」
「変なのに憑かれてるせいだよ。でも野生のタヌキって、この家に入れていいの?」
朔馬はいった。
「病気は持ってないっていってたし、大丈夫だろ」
「病気を持ってないにせよ、伊咲家に上がるなら体は洗った方がいいか。あ、その前に憑いてるものは散らそうか」
タヌキは驚いたように朔馬を見た。
「いいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます。お願いします」
「すこし痛いかも知れない。弱ってると、気を失うかも」
タヌキは迷わずうなずいた。朔馬は膝を折って抜刀し、タヌキを斬った。するとタヌキはその場にこてんと倒れてしまった。
「あ、やっぱり弱ってたのか」
唖然とする私と凪砂をよそに、朔馬は落ち着いていた。
「普通のタヌキより軽い気がするし、お腹も減ってたのかな」
朔馬はタヌキを抱え、敷かれていたタオルの埃を払った。
「タヌキ、生きてる? 大丈夫?」
凪砂は朔馬からタオルを受けとりながらいった。私も同じ感想であった。
「大丈夫だよ。眠ったままだけど、タヌキの体を洗って、西の間で休ませておくよ。外の水道で、この子を洗っていいかな?」
軽く洗うつもりだったが、三人とも動物を洗う経験がなかったせいか、洗い終える頃にはみんなびしょ濡れになっていた。
三人が着替える間、タヌキには縁側にいてもらった。扇風機を添えていたせいか、七月の日差しのせいか、縁側に戻るとタヌキはほとんど乾いていた。
「タヌキが、結界が見えるっていってた」
凪砂はタヌキをなでた。
「あ、結界が見えるんだ? この家には、妖怪除けの結界を張ってるよ」
「その結界って、ずっと稼働してるの? 朔馬は疲れないのか?」
「疲れないよ。見えないところに、護符を貼らせてもらってるし」
「その結界は、俺が見えないだけ?」
「人間には見えないと思うよ。ハロは見える?」
「見えない」
私は首を振った。
「じゃあ俺以外の人間には視えないいと思う」
「ハロの目ってそんなに特殊なの? 変な糸が見えるんだっけ?」
「特殊だよ」
「でも、タヌキがなにかに憑かれてるって、わからなかっただろ?」
私は「うん」と正直に答えた。
「たぶん二人とも、みようと思えば見えたと思うよ」
「え、そういうもんなの?」
「そういうもんだよ。あ、起きた」
タヌキは横になったまま、脚をぱたぱたと動かした。
「大丈夫?」
朔馬はいった。
「大丈夫です。こんなに身体が軽いのは久しぶりです」
凪砂が水を持ってくると、タヌキはそれをぺろぺろと口にし「ふぅ」と一息ついた。
「色々聞きたいことはあるんだけど、もう少し休んでからにしようか?」
タヌキは「大丈夫です」と首を振った。
「私の名は、狸丸(たぬきまる)と申します」
「名前があるのか。俺の名は朔馬」
それにならって、私たちも狸丸に名乗った。
「まず、なぜここに来たのかを教えてほしい」
「仕事中に具合が悪くなり、しばらく山中に潜んでいました。その間、同士らに西弥生神社の話を聞いたのです」
「どんな話を聞いたんだ?」
「西弥生神社は、物騒だから近づくなと。しかし鵺を退治した見鬼も、その近くに潜んでいるらしいと、そんな話を聞きました」
「そういう話なら、妖怪たちが知っていても不思議ではないな。建辰坊が注意喚起したのかもしれないし」
「山中に潜んでいても、なかなか体調がよくならないので、思い切って西弥生神社を目指してみたのです。しかしこの辺は想像以上に物騒だったようで、いつの間にか、なにかに憑かれていたようです」
「最近色々あったし、西弥生神社は人外にとって、俺が思う以上に物騒になってるのかな。悪いことしたな」
「いえ、結果的に体調が戻ったのでよかったです。それに最近の悩みは鵺でしたから。鵺退治に関しては、きっとみな感謝していますよ」
「だからといって、この辺を物騒にしていい理由にはならないだろ。狸丸のように苦しんでる獣がいたら、助けてやれたらいいんだけど」
「この辺に鵺退治をした見鬼がいるという共通認識があるので、この家の結界をみたら、目印にしてやってくる者もいると思います」
「そういうことか。西弥生神社の近くで、この家の結界をみつけて、さらに見鬼をみかけたから、凪砂に声をかけたのか」
「そうです。でもまさか、三人も見鬼がいるとは思いませんでした」
狸丸は私たちを見つめた。
「この辺を物騒にしてしまったのは俺だし、俺を訪ねる分にはこの家の結界を目印にしてもらっていいんだけど。どうしたものかな」
「なにが?」
凪砂はいった。
「この家をタヌキたちの駆け込み寺にはできないし、これ以上西弥生神社に迷惑もかけられないから、どこで対処しようかなと思って」
「この家を駆け込み寺にすると、なにがまずいんだ?」
「えっと、タヌキやキツネの来訪が増える」
朔馬は狸丸をなでた。
「それはまあ、そうか。増えすぎると困るか」
凪砂も狸丸をなでた。
「夜にだけ来てもらうようにするとか? それなら人目につかないだろ?」
「それはありだけど、なにか憑かれているとしたら、この家には入れない」
「抜け道を作ってあげることはできないの?」
「抜け道から妖怪が紛れ込んでくる可能性がある以上、それはできない、かなぁ」
朔馬はそういいながらも、対策を考えているようだった。
私と凪砂は目を合わせて、彼の思考がまとまるのを待った。おそらく私たちが想像もつかないことを考えているのだろう。
「話せるタヌキに関しては、病気とかの心配もないんだろ。結界が問題なら、ガレージで対応するとか? ガレージは結界の外みたいだし」
凪砂は狸丸を両手でなでた。
「ガレージだと夜はライトが反応するから、お母さんたちが気にするかも」
「じゃあ裏庭というか、茶庭は? 結界の範囲ってどれくらいなんだ?」
朔馬は視線を浮かせると「ちょっと見てきてもいい?」と、ひょいと縁側を下りた。興味があったので、私たちも狸丸もそれに続いた。
庭の飛び石は、茶庭に繋がる分岐がある。それは西の間の正面を通り、家の側面に続いている。家の正面から外れると茶庭だとは思っているが、正確にはわからない。
飛び石は家をぐるりと囲むように存在しているが、躙(にじ)り口の近くには関守石が据えてある。
「この辺も結界の領域になってる。裏庭も無理かな」
朔馬は関守石の近くで足を止めた。
「これは躙り口ですか?」
狸丸はするりと朔馬の側によっていった。
「そうだよ」
私は答えた。
「つまり、この家には、茶室があるんですか?」
「よく知ってるな。そうだよ」
凪砂はいった。
「茶釜には縁があるんで、多少の知識はあります。この家の茶室を利用できるなら、ここは駆け込み寺に成り得るかも知れません」
私たちは狸丸の言葉を待った。
「ご存知かも知れませんが躙り口は、人間は頭を下げなければ入れません。武器の持ち込みも禁止です。茶室ではみんな平等になるためとか、そういう意味があるらしいですね。躙り口はそこにあるだけで特別で、入室者を日常から切り離すことが容易ですよ」
日常という言葉の中には、すでに朔馬も建辰坊も存在している。
私の日常は、どこかの時点で切り離されてしまったのかも知れない。その日常に未練はないが、いつか「あの頃に戻れたら」なんて思ってしまう日がくるのだろうか。
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