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◆第八章 【茶室】 凪砂◆
茶室に足を踏み入れるのは久しぶりだった。
換気のために窓と襖を大きく開けると、いぐさの匂いが駆け抜けていった。
「立派な茶室ですね。ここなら問題なく茶室の機能を果たすでしょう」
狸丸は茶室を見渡した。
「でも、茶室を勝手に使ったら、怒られるだろ?」
朔馬は僕たちをみた。
「怒られないよ。今は本当に使ってないし」
西の間の北隣に位置する茶室は、以前は母が仕事場として利用していたらしい。現在は伊咲屋の敷地内に草庵茶室を設けているので、母がここを使うことはほとんどない。
「茶室に招いたとして、ここでお茶を振る舞うことができなくてもいいのか? さすがに炉畳を開けて、炉を使うことには抵抗があるんだけど」
朔馬は狸丸をみた。
「茶を振る舞えなくとも問題ないでしょう。この躙り口を通った者へ振る舞うのは、あなたの術で充分です」
「武器の持ち込みを禁止しておいて、俺がこの部屋で抜刀していいのか?」
狸丸はピタリと静止した。
「それは、よくない、ですね」
僕たちはうなずいた。
「では、術を施すのは後日と約束をするのはいかがでしょうか。ここで振る舞うのは、あなたの優しさです」
「優しさ……その日でなく、後日対処した方がいい理由でもあるのか?」
「なんとなくです」
狸丸はきっぱりいった。
「なんとなくか。でも、茶室を窓口にするのは、いい案だな」
狸丸は得意げに「うんうん」とうなずいた。
◇
家があるなら送ると朔馬が提案すると、狸丸は雲岩寺(うんがんじ)が自分の寝床であるといった。
雲岩寺はこの辺では、それなりに有名なお寺である。
「仕事中に具合が悪くなったっていってたけど、もしかして誰かに使役されてる?」
朔馬はいった。
「一応、そうなります」
「だから名前もあるんだな。どれくらい家に帰ってないんだ?」
「半月ほど」
「じゃあ早く帰りたいだろ? まだ本調子ではないだろうし、またなにかに憑かれても可哀相だから、送ってくるよ」
朔馬は液晶画面を指でなぞり、雲岩寺を検索しているようだった。
「雲岩寺は、地図だとそこそこ近くみえるけど、山の上だから自転車だと面倒かも知れないよ」
「まだ明るいし、大丈夫だよ」
朔馬が狸丸をなでると、彼は目を細めた。
「時に、あなたは鳥居の鍵は付与されていますか?」
狸丸は朔馬にいった。
朔馬はその言葉に感じるものがあったらしく、狸丸を見つめた。
「西弥生神社の鳥居の鍵なら付与されてる。狸丸も、鳥居の鍵を付与されてるのか?」
狸丸は力強くうなずいた。
「狸丸は、立派なタヌキなんだな」
朔馬が感心したようにいうと、狸丸はにっこりと微笑んだ。
――俺はすでに、鳥居の鍵をお前に付与している
建辰坊の言葉が思い出される。
あの時は質問はしなかったが、聞いてみると朔馬は教えてくれた。
鳥居の鍵というのは、鳥居の開門権限のことらしい。よくわからないが、そういうものらしい。
朔馬は西弥生神社の鳥居の鍵を持っており、狸丸が別の鳥居の鍵を持っている。その場合、鳥居間を繋げることができるという。鳥居の鍵は単体で持っていても、普段はどこに移動ができるでもないのだろう。ちなみに鳥居の鍵については、日本の鳥居間でしか使えないようである。
朔馬は現在進行形で西弥生神社の神域の修復を手伝っており、彼が建辰坊に鳥居の鍵の付与をされていても、なんの不思議もなかった。
狸丸を雲岩寺に送るべく、僕たちは西弥生神社へ向かった。
先日ここへ向かった時は、地獄の淵を歩いているような気分であったことを思い出す。
「建辰坊、まだいないね」
波浪はぽつりといった。
「そろそろ帰ってくると思うけど、ここで禍穴を開いたのは想像以上に負担だったんだろうね」
朔馬は狸丸を腕に抱いたまま、賽銭箱にお札を放った。
「え、今。今の、一万円だったけど、大丈夫?」
僕は驚きの声を上げた。
「うん。結高からお金をもらったし」
結高からもらった金額を考えると、多少は理解できる。しかし一万円である。
臨時賞与でプロテインと、建辰坊の御礼の品を頼んだことを考えると、金銭感覚は近しいのかと思っていた。しかし朔馬は働いているおり、普通の高校生とは金銭感覚が違っても当然なのだった。
僕と波浪も、賽銭箱に小銭を放って手を合わせた。そしてここで人が死ななかったことに改めて感謝した。目を閉じていると、背後から暖かい風が吹いた。振り返ると鳥居の下にネノシマが見える。
今はネノシマをみると少しだけ胸が痛む。血の繋がった父親に、強く会いたいと思っていたわけではない。それでも相手側が僕に会う気がないことは、なんというか残念に思う。
「鳥居間の移動は、朔馬と狸丸だけが可能なの?」
波浪はいった。
「任意の者なら、移動可能だよ。二人も往復してみる?」
僕たちは「いってみたい」と声をそろえた。
「狸丸の鳥居って、雲岩寺の近くなんだろ。雲岩寺ってどんなところ? 安全?」
朔馬は聞いた。
「危険は少ないですが、近くに鵺が潜んでいたことがあるので、安全とは言い切れません」
「じゃあ先にいって、安全を確認してくるよ」
朔馬は狸丸を波浪に渡した。
「気をつけてね」
「うん」
「あ、通話しとく? イヤホン持ってる?」
朔馬は「うん」と、先日も使用したイヤホンを首に掛けた。
通話を繋げると、朔馬は鳥居の下で人差し指と中指を立て、虚空をななめに斬った。その後に狸丸も、波浪に抱かれたまま虚空をななめに斬った。
おそらくこれで、両方の鳥居が開いたということなのだろう。朔馬が一歩踏み出すと、その姿はネノシマにいく時のように、すっと消えた。
「何者だぁ!」
朔馬の姿が消えた直後、その怒号は朔馬と繋がっているスピーカーから響いた。
「朔馬、大丈夫か! ていうか、なんだ、誰だ!」
僕もつられて大声になる。
「大丈夫だよ。でも、誰かはわからない」
朔馬の声はいつもと変わらない。
しかしスピーカーから聞こえる摩擦音が、僕たちを不安にさせた。
「朔馬? 走ってる?」
「走ってないよ。攻撃されてる」
「は!?」
「なんか、すごい怒ってるみたいだ」
淡々としたその口調に、ネノシマにいる時の彼を思い出す。朔馬を攻撃しているのは人なのか、人外なのかもわからない。僕は息を吐いて、なるべく冷静になるように努めた。
「朔馬を攻撃してるのは妖怪?」
「人間だよ。坊主」
「坊主? 野球部とか?」
「お坊さんじゃない?」
波浪はいった。
スピーカーからは再び、苛立った声がした。その後、不快な音が聞こえた。イヤホンマイクが落ちたのか、掴まれたのだろう。
「朔馬!」
「あのさ、日本では暴力は正当化できないよな?」
僕の心配をよそに、朔馬は通常運転であった。
「え?」
質問の内容が、すぐには理解できなかった。
「俺は日本でなんの権限もないから、人間に対して暴力を振るったら問題になるよな?」
「正当防衛なら大丈夫。攻撃されてるなら仕方ない」
僕は波浪に確認するようにいった。
「なるほど」
朔馬の力がふっと抜けた気配がした。
――朔馬って、対人はどうなの? 強い?
質問をした時、朔馬は迷いなく「うん」といった。そのことが僕を不安にさせた。
「正当防衛だぞ!」
そういったのとほぼ同時に、スピーカーの奥で「ぐぇ」という呻き声と、重い何かが地面に落ちる音がした。
おそらく朔馬を攻撃していた者が倒れたのだろう。
「朔馬? いろいろ大丈夫か?」
僕と波浪は、顔を青くしてスピーカーを見つめていた。今では攻撃者も心配であった。
「俺は大丈夫。相手は気絶してる」
朔馬は終始冷静だった。
「この人以外に危険もないみたいだし、とりあえず狸丸を家に帰そうか。鳥居は開いたままだから、鳥居をくぐれば、みんなこっちに来れるよ」
不安が消えたわけではなかったが、僕たちはその声に従い、狸丸とともに鳥居をくぐった。
◇
蝉の声が強く響く、緑の濃い場所だった。
朔馬の足元には、袈裟を着た僧侶が倒れていた。年齢は二十代後半くらいだろうか。坊主頭ではないせいか、若い僧侶である印象を受ける。
僕はその姿を見つつ、朔馬との通話を切った。
「理玄(りげん)!」
狸丸は倒れている僧侶に駆け寄った。
「え、知り合い?」
僕はいった。
「私の飼い主です。うわっ、酒くさい!」
狸丸はそういって顔をしかめた。
飼い主が倒れていること以上に、お酒の匂いを気にしたことが地味に面白かった。
「狸丸の飼い主なのか。鳥居から出たら、急に襲ってきたんだ。鳥居を跨ぐ時、普通は気付かれないから、見鬼だとは思ったんだけど」
「なんで襲ってきたんだろう?」
僕はいった。
「理玄、起きろ。理玄」
狸丸はぺしぺしと、理玄なる僧侶の頬を叩いた。波浪が理玄に近づこうとしたが、僕はそれを小さく阻止した。
「たぬ、きまる。生きてた、のか」
理玄は腕の力で上半身を起こすと、顔を伏せて盛大に嘔吐した。僕たち三人は「うわぁ」という顔で、それを見つめるしかできなかった。
「なぜそんなに酒を飲んだんだ? 馬鹿なのか?」
狸丸はいった。
「大きい葬式だったんでな、断れなかった。つーか、そうじゃねぇ。あのガキ、みぞおちに思いっきり……」
理玄は小さく咳き込んだ。
「あの子らは、恩人だ。先に攻撃した理玄が悪い」
「恩人?」
理玄は眉間にしわをよせ、僕たちを睨みつけた。
「なんだ? 三人に見えるぞ」
「三人だ」
「なんで増えてんだよ。妖怪か?」
「ちがう、説明は面倒だからしない」
「説明しろよぉ! もう、フライドチキン買ってやんねぇぞ」
理玄はまだ吐き気があるらしく、情けない声でいった。
狸丸は面倒くさそうにも、簡単に事情を説明した。
朔馬が鵺を退治した見鬼だと聞くと、理玄は「こいつが……」と朔馬を凝視した。ほどなく顔を伏せると、理玄は再び嘔吐した。
「みぞおちの蹴りは、まあ許すとして、アゴへの一発は余計だろ。脳みそ揺れたぞ。あー、気持ち悪い」
「しばらく動けなくした方がいいと思って」
朔馬は悪気なくいった。
「お望み通り、しばらく動ける気がしねぇよ。しかし狸丸のことは礼をいう。突然襲い掛かったことも、悪かったと思う」
理玄がいうと、朔馬は「こっちもやりすぎた」といった。
「なぜ急に、この子を攻撃したんだ? 本来、そんな凶暴性はないだろ?」
狸丸はいった。
「突然鳥居から人間が現れたら驚くだろうが。それに、狸丸の鍵が無理やり奪われたのかと、思った」
理玄は大きく息を吐いた。
「無事でよかった。狸丸」
理玄はわしわしと狸丸の頭をなでた。狸丸は「心配かけたな」と理玄に寄り添った。
悪い人ではないのだろう。そんな気がする。おそらく朔馬も波浪も、同じ感想を持ったに違いない。
理玄はよろよろと立ち上がると、御礼とお詫びは明日させてくれといった。
僕たちは狸丸に手を振ると、西弥生神社の鳥居へと戻った。
戻った神社は、先ほどと何一つ変わっていなかった。
いつもの夕暮れの景色が広がっている。
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