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「あの」
ああ、気まずい。俺は視線を逸らした。妻の手にあるのは、娘が小さな時に書いた作文である。当時漢字が苦手だった娘の作文は全て平仮名とカタカナで書かれていたが、意味を理解するには十分だった。娘の名前は、優奈。この頃は自分のことをずっと“ゆなちゃん”と呼んでたっけな、可愛いな、と俺はやや現実逃避気味に思う。
何から逃げたいかって?決まっている。――妻のものすごく冷たい視線からだ。
「ねえ健二さん。優奈の小さな頃って、私ずーっと働いてて家にいないことが多かったわよね。在宅の貴方と違って」
「ハイ」
「……ピンクのフリフリのドレスってあれよね。クローゼットに入ってたやつ」
「……ハイ」
「…………メアリーって確か、貴方のヨウチューバーとしての名前よね。女装のコスプレして、動画投稿してたやつ。ねえ、結婚前にやめるって約束したわよね?」
「……シマシタ」
「そうよね。じゃあ、優奈の小さな頃のお友達が、実は誰かさんの女装した姿だったなんて、そんなことあるわけないわよね?」
「…………ゴメンナサイ」
そう。
俺は別にそっちの趣味があるとか、ではない。ただ結婚前は、イロモノ系ヨウチューバーとして人気を集めるためだけに、全っ然似合わない女装をやってた時期があるのだ。自宅も晒されるし結婚したら全力でやめて、と妻に言われていたのである。
まさか泣き出した娘が、“メアリーちゃん”の姿を見せたら面白がって泣き止んだので、一時期頻繁に彼女の友達を演じていたなんて――どうして妻に言えようか。ああ、せっかく誤魔化せたと思っていたのに、まさか今更娘の作文が押入れから出てきてしまうなんて!
「死ぬ気で隠し通しなさいよね」
妻の眼は、冷たい。
「高校生になった優奈に知られたら、冷戦どころじゃないわよ」
ああごもっともです。俺は頭を垂れるしかないのだった。
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