夕立

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 おや、来たみたいですよ。ほら、あんなに黒っぽい雲がもう、空の半分くらいに広がって。何やら遠くにゴロゴロ言ってますし。もう、あと五分もすると……あ、もう降りだしましたね。  やっぱり、夕立は夏の風物詩という人が多いですね。真っ青に晴れ渡った空にぽつんと黒雲が湧いたと思ったら、見る間に広がって、凄い勢いで雨がざーっと降りだしたかと思うと、さっと上がる。後は打ち水効果で、辺りにはひんやりと涼しい空気が漂う。そういうところが気持ちが良いなんて人もいますが、私にとっては、実は、あまりいい印象が無いんですよ。  あれは、私が小学校高学年の夏休みでした。その日は猛暑日で、朝からぐんぐん気温が上がり始めて、もう午前中に30度を超えてましたね。あまりにも暑かったんで、もう、外に出る気にもならずに、私は朝からリビングで冷房をかけてゴロゴロしてたんです。一方、共働きの両親は、そんな日でも仕事を休むわけにもいかず、朝から出かけていました。  当時、私にはニ歳下の弟がいました。弟も朝から家にいて、お昼過ぎくらいまでは一緒にテレビを見たりして二人でぼーっと過ごしていたんですが、午後3時過ぎくらいでしょうか、突然、「遊びにいってくる」と言って立ち上がったんです。  そのくらいの年齢になると、もう二六時中一緒に遊ぶような関係でもなかったので、私としては特に詮索もせず、「ああ。遅くなるなよ」とか返事をしたような記憶があります。そして、リビングを出る弟の背中に「あと、夕立が来るかもしれないから傘持ってけよ」と声をかけた記憶もありました。弟も「うん」とか背中で生返事をしながら部屋を出ました。その後、扉の向こうで、リビングの近くにある玄関の扉が開閉する音が聞こえました。弟が出て行った音だと思いました。  私はと言うと、それから、ソファーに転がって、ぼうっとテレビを見ていたんですが、暫くすると、遠くに何やらゴロゴロいう音が聞こえて来たんです。こりゃ、夕立が来るな。あいつちゃんと傘持って行ったのかなあ。漠然とそんな心配をしながら、ぼんやりテレビを見ていると、果たして、あっという間に空が真っ暗になり、猛烈な雨が降りだしました。屋根を打つ大粒の雨滴の音が大きな音をたてて、かなりの迫力です。一瞬、恐怖を覚えたくらいでしたが、雨自体は、30分程度でやみました。あとは、降りだしの時と同じくらいに、急に空が晴れていき、また強い日差しが照り付け始め、どこかに隠れていたセミが何事も無かったように鳴き始めました。  すると、それからほんの数分後に、玄関扉の開く音がして、「ただいまー」という弟の声がしました。私は寝転がったまま、「おかえり」と一応返事はして、そのままテレビを眺めていましたが、あれだけの激しい雨の後だったので、何となく気になり、弟を迎えにリビングを出ました。  玄関には、全身ずぶ濡れの弟が立っていました。雨に濡れた髪の毛がぺちゃんこになって頭にへばりつき、体中から雫が滴っています。半ばあきれ顔で「傘持ってかなかったのかよ」とぼやく私の顔を見ると、「へへ、降られちゃった。すごかったよ。やっぱり兄ちゃんの言う事きくんだった」と舌を出しました。 「とにかく、風邪ひくといけねえから、すぐに着替えろよ」と私が言うと、「うん、ついでに風呂はいっちゃう」と答えて、そそくさと三和土から上がり、二階の風呂場に向けて駆け上がって行きます。それはいいのですが、弟の歩いた後にはポタポタ落ちる雫が床に点々と跡を作ります。 「おい、その雫、ちゃんと拭いとけよ。そのままにしといたら、あとで母さんに怒られるぞ」と言うと、「後でやるよー」と背中で答えて、風呂場に駆け込んでいきました。私はというと、リビングに戻ってまたテレビを眺め始めました。二階から、弟が風呂場を使う音が微かに聞こえてきました。  ところが、それからものの五分もしないうちに、またもや玄関扉の開く音がして、「ただいまー」という声がしました。明らかに弟の声なのです。 「???」  状況が全く飲み込めないまま、私はとにかく玄関に行きました。すると、そこには弟が、一人しかいない私の弟が当たり前のように立っているんです。 「降られちゃった。すごかったよ。でも、兄ちゃんの言う事聞いてよかったよ。ありがとうね」  弟はにこにこしながらそう言うと、雨に濡れそぼった折りたたみ傘を玄関の傘立てに入れました。さっき見た姿が嘘のように、弟の身体には、濡れたような跡はまったくありません。 「あの、ちょっ、お前……」 「なに?」  狼狽えている私を弟が不思議そうに見ています。 「……あの、何て言うか、お前、さっき帰って来たよな?」 「はあ?何言ってんの。俺、さっき出かけてから、一度も帰ってきてないよ。今帰ってきたんだよ」  弟は当たり前のような顔をして、リビングへと入って行きました。 (じゃあ、さっきの奴は誰だ。今風呂場にいるのは……)  とにかく私は急いで風呂場を確認しようと二階に急ぎました。その時、気付いたのですが、さっき、濡れネズミになった弟が点々と落としていった雫は、玄関の床にも、途中の廊下や階段にもどこにも見当たりません。何の跡も残さずに、床も階段も綺麗に乾いていたのです。  風呂場に着いた私は、扉を開けてみましたが、そこには誰も入った形跡は有りません。風呂場のタイルも風呂桶も洗面器も綺麗に乾いていました。 (そんな、ちゃんと風呂を使う音はしていたのに……)  もう、何が起きているのか分からなくなった私は、呆然と立ち尽くしていました。自分がおかしくなってしまったんだろうか。とにかく、あまりこれを騒ぎ立てて、両親に知られると、一層面倒なことになりそうだと思った私は、とりあえず、そのまま黙っていることにしました。  それから、数日後のことです。また同じような状況が発生したのです。  朝からリビングでゴロゴロしていると、弟が突然、「遊びにいってくる」と言って立ち上がりました。私も特に詮索もせず、「あいよ」とか生返事をします。弟はそのままリビングを出ていくのですが、その背中に「夕立が来るかもしれないから傘持ってけよ」と、同じことを言ったような記憶もあります。弟は、同じように「うん」とか背中で答えながら出て行きました。  暫くすると、前回と同じように、夕立が訪れ、家の周辺で、凄い雨が降りだしましたが、30分もすると、すぐに止み、後には青空が広がりました。  すると、それからほんの数分後に、玄関扉の開く音がして、「ただいまー」という弟の声がしました。前回のことを思い出した私は、また傘を持たずに出かけたんじゃないだろうか、と気になって、「おかえり」と声をかけながら玄関に向かいました。  ところが、今度は誰もいません。  濡れネズミの弟が立っている姿を予想していた私は面食らいました。確かに玄関扉の開閉する音がして、弟の声も聞こえたのですが、玄関には誰もいないのです。  狐につままれたような気がしましたが、とにかくそこに誰もいないのですから、どうしようもありません。私はそのままリビングに戻りました。  ところが、それから数時間程たってから、弟はまさに濡れそぼった姿で帰宅することになりました。  家から十分くらいのところに、H川という小さな川があるのですが、弟は一人でそこに遊びに行っていて、誤って川べりから転落し、流されてしまっていたのです。その直後に発生した夕立のせいで、付近の人通りも一時的に皆無になり、誰も川面を流されて行く弟に気付く人は無く、そのまま溺れ死んでしまったのです……  今にして思えば、あの現象は何だったんでしょうか。弟の死を予言していたのか、或いは何か超自然的な現象で、二つの世界に住む弟が現れたのか。浅学菲才の私には全てが謎のままです。  ただ、こんな日はあいつが帰ってくるような気がするんです。  実際、あれ以来時々あるんですよ。猛烈に暑い夏の午後、突然夕立が降り始めるような時……リビングでぼうっとしていると、玄関扉が開く音がして、「ただいま」という声が聞こえる。走って玄関に行っても、誰もいない。  でも、三和土から床に上がって点々と滴る水滴が、風呂場まで続いているんです…… [了]
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