疾走の鎮魂歌

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 ドアはすぐに開いた。中から初老のキャソックを着た男がヘルツの顔を覗き込み、夜の訪問者が誰なのか分かると表情が変わった。 「こんばんはトマス神父様」とヘルツは子供の頃から教会と共に存在したトマス神父を前に帽子を取った。昔は黒髪、今は禿げかかった頭のトマス神父はまじまじとヘルツを見つめた。 「アルバン・ヘルツ……! いや、これはこれは……立派になって。……ウィーンで名警部と名高い君がまたここに戻って来るとは思わなんだ。……もしやミハイル・アルデンホフのことを聞いたのかね?」 「……はい」とヘルツは返事をした。トマス神父の前に嘘はつけない。その気持ちは大人になった今、ずっと強くなった。「トマス神父様、ミハイルの墓を案内して下さい」そう言うとトマス神父は一瞬だけ目を見開き頷いて教会内からランプを2つ持って来てくれた。  2人はただでさえ誰も喋ることのない墓地の中を無言で歩いた。雨は細く静かだが確実に身体に染み渡り、体温を持っていこうとする。ヘルツはコートの上から腕を摩った。 「あれが、ミハイル・アルデンホフの墓だ」とトマス神父が目で示す。空き地にぽつん、とその墓だけ他の墓と離されていた。ヘルツは墓の前に進み出た。 『ミハイル・アルデンホフ 咎無くて罪を負うたと叫ぶ口は永遠に閉ざされり』  ヘルツは碑文をゆっくり読んだ。2度目は声に出して読んだ。3度目は刻まれた文字を撫でた。撫でながらヘルツは泣いた。誰も聞いてくれなかった無実(Unschuldig)の10文字を、ミハイルはどんな気持ちで叫んでいたのだろう。それは報われて然るべきだったのにミハイルは生きてそれを見ることは出来なかった。そう考えたら涙が出て仕方がなかった。 「ミハイル」と生きているヘルツは口を開いた。「君はずっと正しかった。エーリヒは無実だった。……これを言うのに時間をかけ過ぎたこと、本当にすまなかったと思っている。今日決着をつけるから見ていてくれないか」  墓参りを終えて教会に戻る途中でトマス神父が誰がヘルツを呼び寄せたのかを聞いてきた。ヘルツが答えると悲しそうにため息をついた。 「ルドルフ・ルースも哀れだ……ずっと神経症を患っていた母親を看病し、やっと看取ったと思ったら自身も不治の病に冒された……もう夏は越せないだろう。だからその前に君に会いたかったのだろう。彼は君の活躍をとても喜んでいた」  ヘルツは頷きながら美しいがあまりにも神経過敏だったアントニア・ルースを思い出した。ルドルフは亡くなった父親に代わってずっと面倒を見ていた。 「神父様」とヘルツは教会に戻ろうとするトマス神父を引き止めた。「今夜ですが、ずっと教会にいらっしゃいますか?」
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