八朔の月に、希う

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*** 「――でな、ばあちゃんの奴、俺にビンタしやがってよ! マジで張っ倒してやろうかと思ったわ!」  頬を上気させ、鶏のから揚げを口いっぱいに頬張る聖二はすこぶる上機嫌、もうすっかり酒に飲まれている。  地元歓楽街の中ほどに佇む、軒先の赤提灯が眩しい大衆酒場、友垣(ともがき)。暖色系の照明が灯る店内の一角、小上がりになった座敷席で向かい合う僕らは今、大いなる宴の最中にあった。 「ほんと生真面目っつーか、冗談の通じない女だったよ、希ちゃんは! うはは!」  身振り手振りを交え表情豊かに、エモーショナルな語り口でばあさんとのエピソードトークを披露するアメカジ男を心地よい浮遊感と共に見つめながら、僕は数時間前の自分自身を心密かに褒め称える。  何せあのとき勇気を振り絞っていなければ、当たり前のことだが、今この瞬間は存在していないのだから。  聖二は、僕の誘いを快く承諾してくれた。混じり気のない、くしゃっとした笑顔で「お、いいねえ!」と言ってくれた。本当に、バカみたいに優しい奴なんだ、こいつは。 「つーか……」  店舗入口の縄のれんを潜ってから早一時間。ほろ酔いの意識の中、僕にはここに来てからずっと気にかかっていることがあった。 「おまえ、さっきからちょいちょいケータイいじってるけど、アレか? もしやカノジョか? カノジョなのか?」 「ちげーよ」  否定しつつ、しかしとろけきった瞳は明後日の方向を向いている。怪しい。僕は追及の手を緩めない。 「声が震えてるぞ」 「気のせいだって」 「白状しろよ、ブラザー」  二人の頭上に重く凝った沈黙が垂れ込めたのは直後のことだ。五秒か、六秒か。やがて睨め回すような視線に根負けした聖二が、やれやれと言わんばかりに苦笑し、 「実は……」 「おう」 「実はな、おまえに内緒で一人、スペシャルゲスト呼んでるんだわ」  スペシャルゲスト? 僕はいささか食い気味に反応してしまう。   はてさて、いったいどこのどいつを呼んだというのだろう。訝しく尋ねるも、聖二は「これ以上の詮索はよせよ」とぶっきら棒に一言、メンソールタバコを気だるげに吹かしながら、頑なにその正体を隠し続けた。 「もうすぐ着くらしい。ま、楽しみにしてろって」 「……了解」  それからほどなく廁に立ち、用を足した僕の頭の中は言わずもがな、スペシャルゲストとやらのことでいっぱいだった。  ここだけの話、聖二が声をかけていそうな人物に、かなりしっかりとした目星はついていた。何せ僕らに共通する知人というのはパッと思いつく限り二人しかいない。一人は真帆ちゃんで、もう一人は(かえで)ちゃんだ。  記憶の中に生きる楓ちゃんはスラリと伸びた長身で、しっかり者で、なおかつ大人びた顔つきの正統派美人であった。小三の夏に隣県に引っ越してしまった彼女とはもうそれっきり会っていないけれど、きっと今も、当時と変わらぬ美貌を保ち続けているに違いない。  真帆ちゃんか、はたまた楓ちゃんか。  答えを導き出せぬまま廁をあとにする。気づけば千鳥足になっている。四方八方から響く酔っぱらいたちの陽気な声が、耳に心地いい。 「……ん?」  やがて視界の先に座敷席が見えてきたときのこと、僕は思わず立ち止まった。聖二の隣に女性のシルエットを捉えたからだ。線が細く、所作がたおやかな赤文字系ファッションの彼女は、遠目にも上玉だということが理解できた。  僕は確信する。あれは楓ちゃんだ。スペシャルゲストは楓ちゃんだったのだ。  再び動作を再開した両足が一直線に座敷席を目指す。下ろし立てのシューズがコツコツと床を打つ。心は躍りに躍っている。楓ちゃんの奴、僕のことを覚えてくれているだろうか。  はやる気持ちを抑え、至って平静を装いながら、 「お待たせ」 「ゲスト、もう来ちまったよ」 「悪い悪い」  言いつつ、ここでようやく、まともに視線を上げる。  僕の右斜め前で艶然と微笑む楓ちゃんは、それはもうド偉い美人に成長していた。肩口まで伸びた、艶めくブラウンの髪。肌荒れ一つない、きめ細やかな肌。目鼻立ちの整った、エキゾチックな面立ち。どこを取っても完璧な彼女は、こんな片田舎の大衆酒場にあっては無論、場違いとしか言いようがなかった。 「もはや説明不要だろうけど、一応紹介するぞ?」 「お、おう」  そして、聖二は言った。叫ぶように、がなるように、 「今夜のスペシャルゲストは!」  藤井真帆ちゃんです――と。
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