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蝉の鳴き声が騒音として訴えられないのは、地上に出てからの寿命が僅かだと知られているからだろうか。
だとしたら、人間はいささか感傷的すぎる。
――荻野にとって、数年ぶりに踏み入れた故郷への感想だった。
ホームに降り立っても、高い建物は何一つ見当たらず、地平線の代わりの山の稜線を臨むばかり。
それから青い空と、絵に描いたような入道雲。
おそらくこれらは、都会の人間が金を払ってでも目にしたい光景なのだろう。
荻野は電車の扉が開いた瞬間から、まるで田舎の洗礼を受けたような想いに駆られていた。
この地で暮らす人々は蝉の鳴き声で気が狂うことはないのだろうか。問い詰めようにも、駅で降りたのは彼ひとりだけだった。
駅から一本道を進んでいくと、田園が広がり、川が流れている。
記憶と寸分違わない景色を荻野は歩いた。
一歩進むごとに大量の汗が肌に滲む。ハンドタオルを額に当てながら、荻野は太陽に焦がされ続けた。
やがて子どもならば異様に盛り上がる小さな橋に差し掛かり――それは荻野も例に漏れず小学生特有の度胸試しに散々挑戦したからである――生い茂る木々の木漏れ日に、空を見上げて目を細めた。
「あれ?」
明らかに己を知っている疑問符が聞こえて視線を下ろす。
すると荻野の目の前には、長髪の人間が立っていた。
「帰ってきてたんだ」
人間が、と考えたのは、シルエットだけでは相手の性別が分からなかったからだ。
小さな橋の向こうにだらりと脱力して立っていたのは、改めて確認すると男性のようだった。
それは、骨ばった体格が女性ではなさそうだから、という判断に基づいていた。
「おれだよ、おれ」
詐欺師のテンプレートのような台詞と共に、男性は大きく手を振ってきた。
ようやく凝視して、荻野は相手の正体に思い至った。
「……萩原?」
「正解。流石は、親友だ」
果たして親友と呼ばれるほど仲が良かっただろうか、と荻野は首を傾げた。
しかし萩原は意に介さず、大股で荻野に歩み寄ってくると、大げさな動作で荻野の肩を抱いた。
萩原はよれよれの白いTシャツと黒色のハーフパンツに、サンダルを履いていた。だらしなく見えなくもないが、不快さを感じさせないのは元来の整った顔つきのおかげだろうかと荻野は考える。
「15年ぶりだな。元気だったか? その腹を見たらだいたい分かるな。ははは!」
「うるさい。会社でも健康診断に引っかかったところなんだ」
「ついに今年三十路に突入したもんなぁ。おれたちも、いつまでも若くないってことか……」
萩原が白い歯を見せてけらけらと笑った。
「僕はまだ29歳だ」
「はいはい。そういうのを悪あがきって言うんだぜ。なぁ、この後予定はあるか? ないよな。ちょっと付き合え」
どこへ、と問いかけるのは愚問だろう。
荻野は大人しく、この破天荒な男について行くことにした。
何故か、というのも愚問だった。
荻野にとって萩原は、子どもの頃から特別な存在だったのだ。
「懐かしいな。オギといえば常に天体図鑑を持ち歩いているイメージがあるけど、今でも好きなのか?」
「正確には、冥王星にひどく憧れていたんだ。太陽系で最も太陽から離れている惑星。太陽から離れているが故に氷に包まれた冷たい星。謎に包まれている存在。理由なくかっこいいと思っていた」
「確かにあの頃、私服のオギは黒ずくめのイメージが強い。林間学校とか、修学旅行とか」
「服装の話はやめてくれ……」
荻野はわざとらしく溜め息を吐きだした。
今日の彼はライトグレーのポロシャツにジーンズ、スニーカーというありふれた青年の装いである。
話題を逸らすためにも、荻野は声のトーンを上げた。
「だけど冥王星は2006年に太陽系から外されたんだ」
「そういえばニュースで見た気がする。何故だっけ」
「惑星の定義はみっつある。太陽の周りを回っていること。重たく、重力が強いため丸いこと。それから軌道の周辺に、似たような大きさの天体が存在しないことだ。冥王星は、冥王星よりも大きな天体が発見されてしまったのが運の尽きだった」
「なるほど。あっけないもんだな」
けらけらと萩原は笑い、長い髪の毛を掻きむしる。
ふたりの肌にはじっとり、というよりはねっとりとした湿気が纏わりついていた。
荻野はもはやタオルハンカチに頼ることを放棄していた。流れる汗が目に入りそうになるのを乱暴に拭う。
中学校の門は開放されていて、ポロシャツの荻野とTシャツの萩原という、明らかに子どもではないふたり組をやすやすと侵入させた。
蝉の大合唱は永遠に続くクライマックスのようで、
百葉箱の設置された木陰まで歩いて行くと、萩原は視線を木の根元へ落とした。
「見てくれよ。こんなに暑いのに枯れていない」
それは木ではなく、根元に置かれた花束に向けた言葉だった。
反対に荻野は木を見上げた。
彼らが2年生のとき、担任教師はこの木で首を吊った。
萩原の表情から笑いが消える。
過去を懐かしむかのように目を細め、樹皮に手のひらを預けた。
「皆、皆、離れていった。オギ。唯一、お前だけが子どもの頃からの友だちだよ」
萩原はかつて、眉目秀麗と謳われる中学校のスターだった。
そのうち東京で芸能界入りするのではとまことしやかに囁かれていた。
そんな彼に『手を出した』と言われ非難を浴びたのが、新任の担任教師だった。
真偽は不明だった。
ただ、田舎の噂というのは広まるスピードが何よりも速い。あっという間に担任教師は追い詰められて、病んでいったのだ。
そしてあっという間に萩原は孤立した存在となった。
「かんたんには死ねない。なのに、どうしてかんたんに死んじゃったんだろうな。おれには未だに分からないよ」
「どうして僕にそんな話を?」
「知っていただろう。おれが、先生のことを好きだった、って」
荻野は頷かず、黙り込んだ。
知っていた。
いつも、視線で追っていたから。
誰にも話しはしなかったけれど。
荻野は想像を巡らせる。
萩原は、今もなお村八分のごとき扱いを受けているかもしれない。それなのにこの閉鎖空間に留まり続けているというのは、……そこまで巡らせて彼は思考を止めた。
「ほんとうのことは誰にも分からないものだ。そして、大概の人間は、ほんとうのことに興味はない」
「荻野は昔から詩人みたいだ」
太陽はあっという間に落ち、黄昏の空気はグレーの画用紙に青とオレンジのインクを垂らしたように複雑な色合いに変わっていた。
通行量が多くないのにも関わらず、中学校の前には歩道橋がある。
錆び方が荻野の記憶と変わっていないことは、まるでこの場だけ時が止まっているかのようで違和感を覚えるのだった。
歩道橋の手すりに、萩原はもたれかかった。
カシュ、と軽快な音を立てて萩原が缶ビールの蓋を開ける。
「うん、苦い。やっぱりビールの美味さは幾つになっても分からない」
萩原は誰に共感したかったのかと荻野は考える。
しかし尋ねはしない。ほんとうのことに、荻野自身も興味はないのだ。
隣で荻野は手すりに腕をかけ、同じようにビールを口に含んだ。
サラリーマン生活でビールは飲むものではなくツールとして慣れてしまっていた。あっという間に空にしてしまう。
「もう飲めないからやるよ」
萩原は、荻野の頬にビール缶を押し当てた。驚いた荻野が空いた手で缶を手に取ると、そのまま手を離す。
萩原は手を振りながら軽快に歩き出す。挨拶もなく、そのまま歩道橋を降りて行った。
残された荻野は、飲みかけの缶にそっと口をつける。
「……おれは、友だちとは思っていなかったけどな」
荻野にとって萩原は冥王星のような存在だった。
荻野にしか分からない、分からなくていい感情を最後の一口と共に飲み込んだ。
いつしか空は闇色に塗り潰され、満天の星が煌めいていた。都会の人間が金を出してても見たがるような、図鑑通りの光景だ。
熱風はいつしか心地よい天然クーラーに変わっている。
蝉の鳴き声は聞こえない。
冥王星は、見えない。
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